局中法度はフィクション!新選組の”鉄の掟”、実はそんなに厳しくなかった。隊規の実態を探る:3ページ目
「特別扱い」を原因とする没落
もちろん新撰組の隊規には厳しい条項もあるので、山南敬助や柴田彦三郎のように脱走ののち捉えられて切腹した者もいます。
しかし、ルールに違反した者が必ず処刑されたわけではありません。切腹どころか、微罪や謹慎で済むことも少なくありませんでした。また厳しい処罰が決まっても、脱走に成功して刑を免れた者も多数いたのです。
新撰組としても、遠方に逃げられれば、わざわざ苦労して追跡しようとまでは考えていなかったのでしょう。
それに、脱走後に帰参を許された隊士もいました。その一人が、阿部十郎という人物です。最近、『るろうに剣心』で登場したことでも話題になりましたね。
彼は隊の結成初期からのメンバーでしたが、池田屋事件の直前に脱走し、その後は切腹となるはずでした。しかし土佐藩士らによる大坂城制圧計画を新選組と共同で防いだ功績を称えられて、特別に再入隊を許されています。
にもかかわらず、慶応3年(1867)3月に隊士の伊東甲子太郎が御陵衛士を組織すると、阿部も再び脱隊してこれに参加。御陵衛士が新選組に壊滅させられると、今度は薩長側に寝返って伏見で近藤勇を銃撃しました。
この時、近藤は肩を負傷して鳥羽伏見の戦いで指揮を採ることができなくなっています。隊規を厳しく適用して阿部を厳罰に処していれば、こんな事態も避けられたかも知れません。
こうして見ると、新撰組の隊規が「局中法度」と呼ばれて何人もの隊員が厳罰に処されたというのはフィクションに基づく伝説であり、実際にはそこまで厳しくなかったことが分かります。
また、それによって新撰組も没落していったのです。
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参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年