これはえげつな!!花山天皇が母と娘それぞれに生ませた皇子たち【光る君へ】:2ページ目
花山天皇の第一皇子・清仁親王
生年不詳~長元3年(1030年)7月6日没
清仁親王は複雑な家庭の事情から、異母弟であり義理の甥でもある昭登親王と共に祖父・冷泉天皇の第五・第六皇子として育てられました。
しかし人々は実態を知っており、清仁親王を親腹皇子(おやばらのみこ)、昭登親王を女腹皇子(むすめばらのみこ)と陰口したと言います。
寛弘元年(1004年)に昭登親王と共に親王宣下。これで正式に冷泉天皇の皇子として認められました。
これに対して花山天皇と対立していた藤原道長は難色を示したものの、やむなく受け入れます。
出家したとは言え、花山天皇の影響力は道長が無視できないものだったようです。
そして寛弘8年(1011年)8月に昭登親王と共に元服。成人の証である冠をかぶせてくれたのは藤原実資でした。
同年10月に行われた三条天皇の即位式では、兄弟そろって左右の擬侍従を務めます(清仁親王が上位の左、昭登親王が右)。
長和5年(1016年)に行われた後一条天皇の即位式においては、清仁親王が右の侍従、昭登親王が左の侍従を務めました。この5年間に、兄弟間で立場の逆転があったのでしょうか。
やがて万寿元年(1024年)1月に弾正尹(だんじょうのかみ)となるも、4年後の長元元年(1028年)に出家。そして長元3年(1030年)7月6日に薨去されたのでした。