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日本初の従軍記者はマルチ・プレイヤー。実業家としても活躍した岸田吟香(ぎんこう)とは【後編】

日本初の従軍記者はマルチ・プレイヤー。実業家としても活躍した岸田吟香(ぎんこう)とは【後編】:2ページ目

また、若き日に眼病を患ったせいか、盲人教育への関心も強く、前島密・中村正直・山尾庸三などとともに、1880(明治13)年に授業を開始した楽善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)も創設しています。

晩年は、当時の中国大陸の情勢についてまとめた『清国地誌』の編纂も手掛けますが、完成を待たずして、1905年(明治38)年6月7日に心臓病と肺炎のため亡くなりました。墓は東京の谷中墓地にあります。

中国では、商業的な活動だけでなく欧米の医療技術普及についても活動を行い、中国各地に病院を設けた同仁会にも積極的に参加したと伝えられています。

プライベートでは子宝に恵まれ、7男5女をもうけます。四男は、洋画家として著名な岸田劉生。そして、その下の弟の岸田辰彌は、後に宝塚歌劇団創設期の演出家として活躍することになります。

参考

  • 杉山栄『先駆者 岸田吟香』(1952 岸田吟香顕彰会)
  • 杉浦正『岸田吟香:資料から見たその一生』(1996  汲古書院)
  • 秋山勇造 『明治のジャーナリズム精神』 (2002 五月書房)
 

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