したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【後編】:3ページ目
薩摩藩の挑発と出兵
この時、西郷や大久保などの藩士クラスは完全に蚊帳の外で、中心となっていたのは公武合体派の大名や皇族たちでした。
討幕派はこの状況に不満を抱きます。強硬派は関東で挙兵し、江戸市中で犯罪行為を働きました。これらを煽動したのは薩摩藩です。慶喜による巻き返しに対抗するべく、大久保利通が西郷隆盛を頼り、西郷が工作員として動いたのでした。
結果、江戸の町は強盗や火付けで荒らされます。いわばこれは幕府を挑発する行為だったのですが、これに堪忍袋の緒が切れた佐幕派である庄内藩兵は、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにしました。
そしてこれがきっかけで、慶喜も京への出兵を決断。1868年、ついに「討薩の表」が発せられ、旧幕府軍は大坂城を出て京都へ向かったのです。
こうして見ると、大政奉還は慶喜の「悪あがき」どころではなかったことが分かりますね。
最初から慶喜は、討幕派の牙を折る、あるいは肩透かしを食らわせるための暗闘を展開させており、大政奉還もその一環だったのです。
実際、それによって多くの大名たちが慶喜の味方につきました。もちろん歴史の流れの全体を見れば、慶喜は最終的には敗北してしまうのですが、少なくとも彼は、一般的なイメージよりもはるかにしたたかで狡猾、そして有能な人物だったのです。
参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』徳間書店、2018年