したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【後編】:2ページ目
徳川慶喜の逆襲
まず慶喜は、王政復古の翌日には、なんと自分の呼称を「上様」とすることを宣言しています。
そして慶喜の味方だった松平春嶽は、一度は大坂に入って情勢を見定めたらどうか、と進言しました。これを受け入れて、慶喜は二条城を出ると大坂城へ移ります。
そして逆襲が始まりました。慶喜は大坂城にこもると兵を集結させます。そして、内大臣は辞任するものの、前官礼遇を求めるという条件をつけます。
さらに慶喜だけではなく、味方の土佐藩も動きました。山内容堂と後藤象二郎は公家たちを動かして、薩摩藩の孤立化をはかります。前述の春嶽も、容堂とともに小御所会議の決定を空文化させようと奮闘しました。
こんなこともあって、気が付けば、討幕派だった朝廷内で大久保利通と岩倉具視は孤立していました。二人だけが一生懸命に陰謀を組み立てているだけで、周囲は皆、慶喜を支持しているのです。
さらに慶喜は、江戸幕府が敷いていた統治機構を活用し、全国支配を継続することをほのめかします。
また16日には、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの六か国の公使と大坂で会談。今後も政権を担当すると表明し、幕府による外交権保持を承認させました。
では朝廷にはどう出たかというと、「幕府は廃止となるが、これまでの良い制度は残す」と主張します。しかも19日には王政復古の大号令の撤回も求めています。
さすがに大号令の撤回には至りませんでしたが、朝廷は「大政委任」の継続は承認しました。
慶喜は一歩も退いていませんでした。それどころか、どこまでも自分が有利になるようにことを進めていたのです。
そして23・24日には再び首脳会議が開かれ、先の小御所会議の決定が覆されます。慶喜に対する処分は緩和され、土地の提供も有力大名の議論を踏まえて決めることになったのです。