徳川家康を挑発!?「関ヶ原の戦い」を引き起こした、あの天才軍師のカリスマエピソード紹介
約140年間続いた戦国時代でフィナーレを飾った「関ヶ原の戦い」は有名ですが、ことの発端となった事件については知らない方が多いのではないでしょうか。
ということで今回は、「関ヶ原の戦い」を引き起こした 天才軍師・直江兼続とそのエピソードについて紹介します。
※こちらの記事もおすすめ
それって届くの?武将・直江兼続が閻魔大王にメッセージ。その理由が怖すぎる…
戦国大名・上杉氏二代(謙信、景勝)に仕え、文武両道の手腕を発揮した直江山城守兼続(なおえ やましろのかみ かねつぐ)。軍神・愛宕大権現より「愛」の一文字を前立にデザインした兜がトレード…
天才軍師・直江兼続とは
直江兼続は、米沢藩(現・山形県周辺)初代藩主・上杉景勝を支えた文武兼備の智将です。「愛」の文字が付いた兜を被っているのが印象的で、ドラマやアニメで見かけたときの記憶が残っている方も多いかもしれません。
ちなみに彼の兜の「愛」は、「愛染明王(あいぜんみょうおう)」または「愛宕神社(あたごじんじゃ)」の頭文字だと言われています。どちらも戦争を司る神様で、戦場で神の加護を受けるために身に着けていたそうです。
直江状と関ヶ原の戦い
豊臣秀吉の没後、徳川家康が政治の実権を握りはじめた1600年4月のこと。上杉景勝の前に会津国を治めていた「堀秀治」が、「上杉家に謀反の疑いあり」と徳川家康に密告します。このとき徳川家康に「直江状」 とよばれる手紙を送ったのが、直江兼続です。
直江状の内容については諸説ありますが、「明らかに噓だと分かる戯言を信じるなんてどうかしている」といった内容でした。この挑発的な手紙に激怒した徳川家康は、会津征伐を決行することにします。
これを知った石田三成は、徳川家康を倒す大義名分ができたと参戦を表明。こうして戦国時代のフィナーレを飾る「関ヶ原の戦い」へと発展したのでした。
ページ: 1 2