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二日酔いで「大坂の陣」に出陣し徳川家康が激怒!”酒封じの神”となった本多忠勝の次男・忠朝

二日酔いで「大坂の陣」に出陣し徳川家康が激怒!”酒封じの神”となった本多忠勝の次男・忠朝

大坂の陣において二日酔いで出陣

そんな忠朝は慶長19年(1614)の大坂冬の陣で、敵の猛攻を受けて敗走してしまいます。

父に匹敵する武勇を持っていた忠朝が負けた原因は、飲み過ぎによる二日酔いだったと言われています。

この失態により、家康から激怒された忠朝でしたが、翌年の大坂夏の陣における天王寺・岡山の戦いで先鋒に抜擢

冬の陣での汚名を返上するため、忠朝は毛利勝永軍と対峙します。

馬に乗り、鉄棒を振り回しながら獅子奮迅の如く戦いますが、腹部に銃弾を受けしてしまい、34歳で討ち死にしました。

家康はその死を悼み、忠朝の遺児・政勝を大和国郡山藩主として任命しました

死に際の遺言が酒封じの神様の始まり

忠朝は死の間際、「憎むべきは酒なり。死後は酒で身を誤る者を救おう。」と言い残したと言われ、それがきっかけで忠朝は「酒封じの神様」として知られるようになりました。

ちなみに、忠朝のお墓は大阪市天王寺区逢坂にある一心寺にあります。お酒に関するお悩みがある方は酒封じの神様である忠朝に会いに行ってみてもいいかもれません。

参考:長谷川ヨシテル『ポンコツ武将列伝』‎2017年、柏書房

 

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