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二日酔いで「大坂の陣」に出陣し徳川家康が激怒!”酒封じの神”となった本多忠勝の次男・忠朝

二日酔いで「大坂の陣」に出陣し徳川家康が激怒!”酒封じの神”となった本多忠勝の次男・忠朝:2ページ目

メキシコとの交流のきっかけを作った

本多忠勝顔負けの武勇を持っていると同時に忠朝はメキシコとの交流のきっかけを作ったことでも知られています。

この出来事は慶長14年(1609)にフィリピン総督のドン・ロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号の難破により、大多喜藩領の岩和田村(現在の千葉県御宿町)の浜に漂着したことが始まりです。

漂着したロドリゴたち317人は地元民によって救助。忠朝も家臣300人たちを率いて、ロドリゴの元へ訪れます。

そして、江戸幕府にこのことを報告し、大多喜城にて手厚くもてなしました

その後、ロドリゴたちは江戸城にいる秀忠、駿府城にいる家康から歓迎を受け、与えられたガレオン船で本来の目的地であったアカプルコ(メキシコの都市)へ向かいました。

このことがきっかけになり、1978年に大多喜町とクエルナバカ市、御宿町とアカプルコが姉妹都市となり、現在もその関係は続いています

兄想いの忠朝

忠朝とロドリゴとの出会いの翌年、父の忠勝が亡くなります。忠勝は亡くなる前、自身の遺産である1万5000両を忠朝に与える遺言を残しました。

これは忠朝の領地が貧しく、困窮していたことを思ってのことでした。

しかし、忠朝は「兄の忠政が収める桑名藩の方が領地が広く、その分お金がかかる」と言って、受け取りを拒否。

忠政は「亡き父の意思に背くわけにはいかない」と両者一歩も譲りませんでした。結局、一族で話し合った末、兄弟で折半する形で解決しました

あの世の忠勝は忠朝の頑固さに頭を抱えつつも、微笑ましく思っていたかもしれません。

3ページ目 大坂の陣において二日酔いで出陣〜酒封じの神に

 

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