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関ヶ原の戦いで活躍した織田有楽斎&長孝父子。しかし家康からの評価は散々……【どうする家康】

関ヶ原の戦いで活躍した織田有楽斎&長孝父子。しかし家康からの評価は散々……【どうする家康】:2ページ目

戸田重政を貫いた村正の槍が……

……入道が子河内守長孝も戸田武蔵守重政が冑の鉢を鎗にて突通せしと聞召。其鎗とりよせて御覧あるに。いかゞしてか御指にさはり血出ければ。村正が作ならむとて見給ひしに果して村正なれば。長孝も迷惑の様して御前を退き。御次の者に事のゆへよしをとひて。はじめてこの作の  当家にさゝはる事を志り。御家の為にならざらむ品を所持して何かせむとて。さし添を抜きてその槍を散々に切折りしとぞ。……

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

続いて御前に参上したのは有楽斎の息子・織田長孝(河内守)。彼も敵方の猛将・戸田重政(武蔵守)を討ち取り、その首級を家康に献上します。

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重政の首級は兜をかぶせられ、その鉢(脳天)は槍で貫かれていました。

「おぉ、河内の。此度の働き、まことに見事であった!」

どうやら重政は特に家康のお気に入りでもなかったようで、これと言ってご機嫌も損ねていません。

「兜の鉢を槍で貫くとは、槍の鍛えも腕前も、実に立派なものじゃ」

「過分のお褒めにあずかり、恐悦至極に存じます」

「どれ、その槍を見せてくれぬか」

「は、こちらにございます」

長孝が恭(うやうや)しく差し出した槍を、興味津々で手に取る家康。しかし……。

「痛てっ!」

家康は手に取った槍の刃に触れ、指先を切ってしまいます。

「申し訳ございませぬ!」

「おぃ河内の!この槍は、よもや村正ではあるまいな!」

「は、いかにも村正の作にございます」

その返答を聞くなり、家康はカンカンになって長孝を追い出してしまいました。

と言うのも、徳川家(松平家)は代々村正によって身内を喪っている恨みがあるのです。

祖父・松平清康も、父・松平広忠も、そして嫡男の松平信康もみんな村正で命を落としていました。

「おのれ村正、どこまでも徳川家に仇なしおるか!」

徳川家中においては既に帯刀を禁じた村正ですが、他家の者は盲点でした。家康は脇差をすっぱ抜くなり、長孝の槍を滅多打ちに叩き折ってしまいます。

まったく、長孝にして見れば、愛用の槍を奪われていい迷惑でしたね。せめて代わりの槍を与えられていればいいのですが……。

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終わりに

以上、関ヶ原の合戦における織田有楽斎&織田長孝のエピソードを紹介しました。

命がけで戦って、武勲を立てたにもかかわらず、二人ともかわいそうでしたね。

天下分け目の合戦を制した家康は、その後着々と豊臣の天下を奪っていくのですが、その陰にはこんな悲喜こもごもがたくさんあったのです。

他の武将たちについても、改めて紹介していきたいですね。

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
 

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