日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【中編】:2ページ目
桂と政友会の関係
少し話は前後しますが、もともと日露戦争の軍備増強の財源については、「増税」によって行うとする政府と、「行政改革による捻出」によって行うべしと主張する政友会との間で論争になっていました。で、1903年3月の総選挙の結果、政友会が勝利しています。
そこで桂は粘りに粘って政友会総裁の伊藤博文と交渉し、政友会の内閣批判の矛先を収めさせることに成功します。こういったところは、桂の「ニコポン宰相」の人柄ならではと言えるでしょう。
その後も政友会と政府の微妙な協力関係は続き、なんとか日露戦争終戦まで破綻せず継続していたのです。
で、桂は前述の通り政友会の原敬との交渉で、終戦処理への支持と引き替えに、終戦後には政友会へと政権を譲ること(禅譲)を約束します。この間の桂の外交と内政にわたる立ち回りは、実に巧みで鮮やかなものでした。
こうして政権を譲られた政友会は、二代目の総裁であり公家出身の政治家・西園寺公望が首相となります。しかし財政難と社会主義者の取り締まりが不十分ということで総辞職し、ここでまた政権が桂太郎内閣へ禅譲されました。