日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【中編】
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日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【前編】
最初は「軍人デビュー」桂太郎(かつら・たろう)は軍人出身の政治家で、山縣有朋の懐刀とも呼ばれた人物です。また総理大臣の座にも三回就いており、その在任期間の合計日数の長さはつい最近まで日本の憲政史上…
日露戦争勃発!
【前編】では、桂太郎による第一次桂内閣が成立した流れを説明しました。そんな桂内閣に、日露戦争という最大の試練が科せられます。
当時、ロシアの威力は満州にまで及び、朝鮮半島も支配する勢いでした。日露の対決は不可避で、桂は小村外相とともに1902年1月30日に日英同盟を締結します。日本国民は世界最強の国と同盟を結んだことに驚喜し、政府も対ロシア戦に向けて予算編成・軍備拡張に追われました。
そしてついに1904年2月に日露戦争が勃発し、日本軍は戦局を有利に進めつつアメリカの斡旋を引き出し、1905年9月にポーツマス条約を締結します。アメリカとは桂・タフト覚書によって、フィリピンの米国領有と引き換えに朝鮮半島の日本の地位を承認させました。
しかし、なんとか日露戦争を何とか乗り切ったものの、日本が賠償金を獲得できないなどの講和内容に不満を抱いた民衆が暴徒化し、1905年9月5日に日比谷焼き討ち事件が発生します。
実際には、この騒動はポーツマス条約への不満だけではなく、当時の社会情勢に対する国民の鬱憤が一気に噴き出したものだったのですが、ともあれ政府施設・新聞社・交番が暴徒によって襲われ、東京は一時無政府状態に陥って戒厳令が敷かれました。
また財政難の問題もありました。日露戦争には当時の国家予算の二倍もの費用がつぎ込まれていたのです。桂は、この状況では政権継続は困難だと判断し、水面下で政友会の原敬と交渉を進めました。これがきっかけで、有名な「桂園時代」が誕生します。