悪名高い「食い逃げ解散」はなぜ行われた?林銑十郎首相の歴史的暴挙の背景
悪名高い「食い逃げ解散」
1937年2月2日に第33代内閣総理大臣となった軍人政治家・林銑十郎(はやし・せんじゅうろう)が、就任直後に仕掛けた「食い逃げ解散」は、日本の憲政史上稀に見る愚策のひとつだと言えるでしょう。
しかし、そもそも林がなぜ「食い逃げ解散」を断行したのか、その明確な理由を示す資料は意外に乏しく、結果として、現代に生きる私たちにとって単なる笑い話のようになってしまっている部分があります。
本稿では、この悪名高い「食い逃げ解散」が行われた歴史的な背景と理由を説明します。
まず、林銑十郎が首相に就任した経緯ですが、当時は陸軍が権力を握って、軍にとって有利な政策を推し進めたいと考えていました。そこで、広田弘毅の次の首相にと押し上げられたのが、大臣を務めたこともあるエリート軍人・林銑十郎だったのです。
彼には、満州事変で無断で朝鮮半島の境界を越えて国外出兵したという経歴があり、「越境将軍」としてマスコミや国民から持てはやされたこともありました。その意味では知名度も高かったのです。
一方、林という人物は優柔不断で他人の言いなりになることが多い性格で、陸軍としても、彼を操り人形として首相に据えて、政治を陸軍にとって有利な方向へ進めたいところでした。
で、紆余曲折があって林が首相に就任したのはいいのですが、彼は首相就任後に初めて開かれた議会の会期末である3月31日、なんといきなり「解散」を宣言して総選挙に打って出たのです。
予算をはじめとする全ての法案が議会を通過した直後だったので、この解散は完全に無意味です。そのため「食い逃げ解散」と呼ばれ、選挙の結果、大して議席を伸ばすこともありませんでした。
やっていることが完全にめちゃくちゃです。政党側は即刻退陣を要求し、軍部もすでに林を見放しており、5月31日に総辞職しました。わずか四カ月で退陣した林銑十郎内閣は「何もせんじゅうろう内閣」と揶揄されました。
なぜ林首相は「食い逃げ解散」を行ったか
しかし、現代から見て理解しがたいのは、彼が食い逃げ解散を断行した理由です。
こんな、誰が見てもめちゃくちゃな「解散」をやれば議会からも国民からも反感を買いますし、内閣不信任案を突き付けられるのは目に見えていました。ではなぜ、彼はあえて解散したのでしょうか。
手がかりになるのは、彼が解散時に「政党の連中に懲罰を与える」と述べていたことです。このことから、いわゆる軍出身ではない、国民の中から選ばれた(という名目の)政党政治家に対して何か鬱屈した感情があったことが伺えます。
林はこの時の解散によって「議会刷新」を期待したといわれており、軍部に有利な政党が結党されるのを期待したともされています(もっとも、林はそのためのテコ入れなどは特に行っていませんが)。
一体彼は、当時の政党政治家や議会に対してどのような感情を抱いていたのでしょうか。