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後北条家存続のため家康を頼った!家康の婿・北条氏直が歩んだ30年の生涯【どうする家康】

後北条家存続のため家康を頼った!家康の婿・北条氏直が歩んだ30年の生涯【どうする家康】

家督相続と家康と対立

そして天正8年(1588)、氏政の隠居に伴い家督を相続。後北条家五代目当主となった氏直は、手始めに織田信長死後に統治されなくなった武田の遺領を巡って織田軍と戦います

天正10年6月に起きた神流川の戦いで滝川一益を制し、信濃国西部を獲得しました。8月には領土拡大を目論む徳川家康と対峙。

氏直と家康の戦いは天正壬午の乱と呼ばれ、決着がつかないまま織田信雄の仲介で和睦しました。

この時、氏直の元に家康の娘・督姫が嫁ぎ、家康の婿となります

父と叔父と対立

同時に家康と同盟関係になった氏直は、勢力拡大のため常陸の佐竹義重や下野の宇都宮国綱の領土に侵攻しました。

そんな折、豊臣秀吉が発令した惣無事令によって勝手な戦ができないことを受け、氏直は来るべく秀吉との戦いに備え軍備増強しつつも、家康の要請で叔父の北条氏規(ほうじょう-うじのり)を上洛させています

この時の後北条家は氏直や氏規が穏健派だったの対し、父の氏政や叔父の氏照は強硬派でした

強硬派との対立と秀吉からの圧力、内と外での問題により緊張状態が続く中、天正17年(1589)に家臣の猪俣邦憲(いのまた-くにのり)が真田氏の支城・名胡桃城を乗っ取る事件が起こります。

氏直は義父の家康にこの事件についての弁明を依頼しますが、上洛していたためできずに終わります。

結局、後北条氏は惣無事令違反の罰により、秀吉を敵に回してしまいました。

3ページ目 小田原征伐勃発 〜 無念の病死

 

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