攻城隊を三度も退ける奮闘ぶり!玉砕覚悟で池田恒興を足止めした丹羽氏重の勇姿をご紹介【どうする家康】:2ページ目
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岩崎城の戦い
天正12年(1584)に起きた小牧・長久手の戦いの際、氏重は家康に従軍した氏次に代わって、一色丹羽氏の居城・岩崎城の守備に当たります。
この時、天然痘を患いつつも、池田恒興(いけだ-つねおき)率いる中入り部隊が岩崎城を通ると、城兵239人と玉砕覚悟で攻撃を仕掛けました。
当初、池田隊は岩崎城を素通りする予定でしたが、岩崎城から仕掛けてきた氏重に応戦。氏重は攻城隊を3度撃退する戦いぶりを見せます。
しかし、援軍として現れた森長可(もり-ながよし)隊の銃撃に怯んだ隙に討ち取られ、16歳の若さで生涯を終えました。
氏重の死を知った榊原康政は、氏次に氏重の最後を伝え、氏次は仇討ちを誓ったとされています。また、氏重の死後まもなく岩崎城は落城しました。
その後の一色丹羽氏
小牧・長久手の戦い後、氏次は家康の取り成しで信雄に再仕官します。そして、小田原征伐後に信雄の領地が改易となると、次は羽柴秀次に仕えました。
その後は家康に再度仕え、関ヶ原の戦いに参加した功績により、三河国伊保(現在の愛知県豊田市)に領地を与えられ、伊保藩の初代藩主となりました。
最後に
玉砕覚悟で池田恒興に挑んだ丹羽氏重。岩崎城の戦いはあまりにも無謀と思ってしまいますが、徳川軍の勝利のために選んだ結果だと思います。
氏重の奮闘もあって池田恒興の進軍が遅くなり、恒興を追撃できたと言われています。
そのため、氏重の勇敢さと武勇が小牧・長久手の戦いの勝利に貢献したと言っても過言ではありません。まさに歴史を変えた人物ともいえますね。
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