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文明開化の明治初期、日本で多くの洋館の設計に携わった「ジョサイア・コンドル」が残したもの

文明開化の明治初期、日本で多くの洋館の設計に携わった「ジョサイア・コンドル」が残したもの

時代が大きく動いた明治初期、文明開化と呼ばれたその時期には、外国からたくさんの「お雇い外国人」が来日しました。日本政府・各府県に雇用された彼らは、日本にさまざまな制度や技術、学問をもたらしました。

多くのお雇い外国人が活躍したなかで、今回はイギリス人の建築家であったジョサイア・コンドルについてご紹介したいと思います。

文明開化の象徴!鹿鳴館を設計

ジョサイア・コンドルはいわゆるお雇い外国人の一人で、イギリス出身の建築家です。1777年(明治10年)、24歳のときに現在の東京大学工学部の教師として来日。西洋の建築学を学生たちに教えながら、多くの洋館の設計に携わりました。

1883年(明治16年)には、彼の代表作である「鹿鳴館」が竣工。国賓や外国の外交官などを招く場所として設計されました。1階には大食堂、談話室、書籍室などが、また2階には舞踏室がありました。

鹿鳴館時代は長く続かず

鹿鳴館に対して、文明開化の象徴というイメージを持っている方も多いかもしれません。しかし、少し前までは人々がちょんまげを結っていた時代。日本ではそれが普通と思われていたマナーや振舞いなども、外国人からみると滑稽に見えることもあったようです。

また、井上馨による不平等条約の改正もなかなか思うように進まず、彼は失脚。井上馨は外相を辞任し、鹿鳴館時代も終わりを告げます。

鹿鳴館は1890年(明治23年)に閉鎖され、その後華族会館として使用、そして民間へと渡り、1940年(昭和15年)には取り壊されてしまいました。

2ページ目 ジョサイア・コンドルが残したもの

 

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