1854(嘉永7)年、1月16日に、マシュー・ペリーが再来日しました。前年6月3日の日本来日から、約7か月後のこととなります。ペリーは再来航の際、浦賀奉行の停泊命令を無視し、江戸湾を羽田沖まで進入しました。
あわてた幕府は、武蔵国横浜村(現在の神奈川県庁の付近)で、急遽応対することにしました。
幕府は、1853年にペリーが開国を促すために来日した際も、何かと理由をつけて回答を先延ばしにし、回答の猶予を得ました。今回もなるべく回答を遅らせようとしていましたが、日本のあやふやな態度を取って相手を煙に巻く外交術を熟知しているペリーは、羽田沖で9隻も並べた艦隊から空砲で威嚇し、当時の日本人にまざまざと軍事力の差を見せつけました。
一方、幕府側も、アヘン戦争でイギリスに敗れた中国の惨状を知っていたので、もはや開国をするしかないとし、しぶしぶ交渉することになりました。
幕府は、当時の大学頭(だいがくのかみ)・林復斎を全権とし、薪や水の補給と漂流民の救助を受け入れる代わりに、通商条約は締結しないという立場で、ペリーとの交渉に臨みました。
対するペリーは、500人近くの士官、水兵、海兵隊員を携えて、幕府側が設置した応接所に出現、その後、両者間で交渉が行われました。その期間は、一か月ほど続いたと伝えられています。
交渉の結果、「日米和親条約」により、下田と箱館の2港を開港すること(第2条)、難破船や乗組員などを救助すること(第3条)、燃料・食料などを供給すること(第8条)、アメリカに“最恵国待遇”を与えること(第9条)、下田に領事を駐在させること(第11条)などが取り決められました。
“最恵国待遇”とは、もっとも有利な条件を与えている第三国(最恵国)と、締結国(この場合アメリカ)を、同等に扱うことを約束すること。この内容だけ見ても、明らかに、不平等なものでした。
ペリーはその後、伊豆下田の了仙寺(りょうせんじ)へ交渉の場を移し、和親条約のさらに細かい規則を定めた、13か条から成る「下田条約」を締結したのでした。
参考