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同時多発!数時間でハイ終了?「天下分け目」関ヶ原の戦いの意外な実態とは【後編】

同時多発!数時間でハイ終了?「天下分け目」関ヶ原の戦いの意外な実態とは【後編】

家康と反・家康連合の激突

【前編】では、関ケ原の戦いが始まるまでの経緯を辿りました。【後編】では、関ケ原の戦いの実態を詳しく見ていきましょう。

【前編】の記事はこちら

同時多発!数時間でハイ終了?「天下分け目」関ヶ原の戦いの意外な実態とは【前編】

「天下分け目の」戦いの実態1600年、関ケ原の戦いに勝利したことで、徳川家康の天下人としての地位が決定的になったのは周知のとおりです。[caption id="attachment_200…

豊臣秀吉の死後五大老の一人として着実に力をつけて影響力を増していった徳川家康に対し、石田三成などの反家康陣営は連合を結成します。

ちょうどその時、家康は上杉景勝討伐のため会津に向かっていたところでした。しかし大坂の動向を知るとUターンし、石田三成を討伐対象とします。これが7月26日のことでした。

ところがこの直前、三成軍は既に家康方である伏見城を攻めており、城主である鳥居元忠も戦死。既に落城していました。三成軍はさらに美濃・尾張方面へ兵を進め、Uターンして戻ってきた家康軍とぶつかります。

そして、岐阜城の戦いでは三成方だった織田秀信が敗北。9月1日にはついに家康も江戸から出陣し、いよいよ全面対決となりました。

数時間で決着

家康が関が原に到着するまでの間にも、戦局は一進一退。両軍が美濃関ヶ原に到着し、ついに激突したのは9月15日のことでした。

この時、三成軍は総勢8万で、家康軍は7~10万ほどの兵力だったといいます。どちらの軍にも歴戦の武将がおり、勢力は拮抗していました。

ここで裏切ったのが、三成方だった小早川秀秋です。彼が家康方につくと、続けて脇坂安治小川祐忠も家康方に寝返り、結果として1万を超える軍勢が家康につくことになりました。

この、裏切りによって生じた兵力差によって、午前中に始まった「天下分け目の戦い」は、呆気なく午後1時頃には終了してしまったのです。

小早川秀秋は、合戦前に既に家康によって篭絡されていました。さらに言えば、家康方からは離反者は出ておらず、こうした点で家康の方が石田三成らよりも統率者として優れていたといえるでしょう。

2ページ目 全国各地でも勃発した戦闘

 

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