「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【中編】:2ページ目
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家康を誘い出し壊滅させる西軍の陣城群
関ケ原は周囲を山々に囲まれた盆地です。数に劣る軍勢が大軍を誘い込んで、その動きを封じて叩く地形として、これほどふさわしい場所はありません。
千田氏は、玉城の発見により、石田三成・大谷吉継・宇喜多秀家ら西軍首脳たちは、玉城を中心として、北に菩提山城・笹尾山、南に松尾山城・南宮山という防衛・戦術ラインを敷き、その間に東軍を引き込み壊滅するというプランを、かなり早い時期から立てていたと推測したのです。
上の図をご覧ください。笹尾山には石田三成の陣城、松尾山には小早川秀秋の陣城、南宮山には毛利勢その他、そして菩提山城にも兵を置き、桃配山の徳川家康本陣を完全に包囲しているのです。
東軍がこの狭い地形に大軍を進めれば、周囲の山に築かれた陣城から一斉に攻撃を受けることは明らかでした。
徳川家康が関ケ原方面に進出したという報を受けた石田三成・宇喜多秀家ら西軍の大軍は、急ぎ大垣城を出て関ケ原に布陣します。これは夜間、それも雨が降りしきる中での高速移動でした。
この時、西軍首脳たちは「してやったり」という思いでいたのでしょう。自分たちが敷いた必勝の布陣に家康が嵌ったのです。戦いの機は熟しました。しかし、ある1点を除いては……。
【中編】はここまで。最終回の【後編】では、必勝を期して関ケ原に布陣した西軍が直面した誤算と、それがもたらした敗戦についてお話しします。
※参考文献:新説戦乱の日本史[最新研究]SB新書
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