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大義を思う者は最期まで…石田三成が処刑直前に干し柿を拒んだ理由とは?【どうする家康】
時は慶長5年(1600年)10月1日、京都六条河原で石田三成が処刑されました。
最期の日、三成は干g「あーはいはい、干柿のエピソードね!知ってる知ってる!」という声が聞こえて来そうなくらい有名ですよね。
しかしご存知ない方もいるかも知れないので、今回は『名将言行録』より、三成と干柿のエピソードを紹介。
原文も一緒に載せているので、よかったらじっくり味わって読んで欲しいと思います。
大義を思ふ者は、仮令首を刎らるゝ期までも……
三成、斬らるゝの日、途中にて湯を乞ひしに、折節其辺になかりしかば、警固せし者、湯は只今求め難し、喉乾かば、爰(ここ)に甘干の柿あり、是を食はれよと言ふ。三成聞て、夫(それ)は痰の毒なり、食す間敷(まじき)と言ふ。聞く人大(おおい)に笑て、只今首を刎(はね)らるゝ人の毒断(どくだち)するこそ笑(おか)しけれと言ひしを、三成聞て、汝等(なんじら)如き者の心には尤(もっと)もなり、大義を思ふ者は、仮令(たとい)首を刎らるゝ期までも、命を大切にして、何卒(なにとぞ)本意を達せんと思ふものなりと言はれけり。頓(やが)て六条の河原に行きしに、顔色平生の如くにして、死に就きしとぞ。
※『名将言行録』巻之三十六 石田三成
「……のぅ、喉が渇いた。湯などくれぬか」
三成が警固の者に頼んだどころ、「ちょっと用意できないな。喉が渇いたなら、これでも食いなされ」と干柿を渡しました。
すると三成は「忝(かたじけな)いが、それは痰の毒だ。お気持ちだけいただこう」とのこと。これを聞いた人々は大笑いします。
「はっはっは!これは傑作だ。これから首を刎ねられようと言うのに、健康を気にされるとは……」
どうせ死ぬのに、無駄ではないか。言われてみれば、そう思うのも無理はありません。
(合わせて、どうせ死ぬ三成に干柿を与えた者もお人よしですね。どうせ死ぬどころか、返ってくる見込みもないのですから)
しかし、三成は毅然として言いました。
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