街全体が城郭だった「鎌倉」。その重要な防御施設「鎌倉七切り通し」を紹介:2ページ目
切通し一帯が刑場だった「化粧坂」
海蔵寺の手前から山に入り、葛原岡へと続く道。新田義貞は鎌倉攻めにあたり、三手にわけた軍勢の内、一軍を差しむけここで幕府軍を破りました。鎌倉時代、一帯は刑場で、建武の新政前にここで処刑された後醍醐天皇の近臣・日野俊基を祀る葛原岡神社が鎮座します。
傾斜が激しい急坂の道「亀ケ谷坂」
扇ケ谷と山ノ内を結ぶとともに、化粧坂同様、武蔵方面へ通じます。『吾妻鏡』によると3代執権北条泰時が、仁治元年(1240)に悪路だった山ノ内道を整備したとされます。登ろうとした亀達が、余りの傾斜に皆ひっくり返ったために亀返坂とも呼ばれたという伝説が残ります。
交通・戦略上の重要な拠点だった「朝比奈切通し」
鎌倉と六浦(横浜市金沢区)を結ぶ。交通・戦略上の重要な拠点として、また、江戸湾を経て、安房や上総などからの物資の集散地として鎌倉の「生命線」でした。和田義盛の子朝比奈義秀が一晩で開いたという伝説があり、鎌倉七口で最も古の雰囲気を伝えています。