手洗いをしっかりしよう!Japaaan

北条義時に毒を盛った“のえ”が平六と共謀し…北条泰時との家督争い「伊賀氏の変」とは【鎌倉殿の13人 後伝】

北条義時に毒を盛った“のえ”が平六と共謀し…北条泰時との家督争い「伊賀氏の変」とは【鎌倉殿の13人 後伝】

でも、伊賀一族だけだとちょっと心もとない。そこで出て来たのが三浦義村(演:山本耕史)。政村の村は義村の村、元服に際して(成人男性の証しである)烏帽子をかぶせた烏帽子親ですから、義村は“のえ”の企みに賛同しました。

また裏切るのか、平六……いや、彼にしてみれば「(政村も北条だから)北条を裏切った訳じゃない」と言ったところでしょうか。

しかしそんなふざけた言い訳を、尼御台は許さない。義村の怪しい動きを察知した政子はさっそく義村を呼びつけ、これでもかと釘を刺しました。

「いや、あの。違うんです。伊賀兄弟が変な気を起こして……私から説得しますよ」

「あなたがそう言うなら、責任を持ってお願いしますよ」

鎌倉で執権に対抗し得る勢力を持つ三浦一族が手を引いたとなれば、もう伊賀一族に勝ち目はありません。こうして武力衝突は未然に防がれ、“のえ”はじめ伊賀一族は各地へ流罪に。

政所執事であった伊賀光宗は信濃国(現:長野県)へ配流、52の所領をことごとく没収されました。ほか伊賀朝行(ともゆき)と伊賀光重(みつしげ)は鎮西(九州)へ流されます。

そして“のえ”こと伊賀氏は伊豆国北条へ流され、やがて姿を消しました。

晴。伊豆國北條飛脚到來。右京兆後室禪尼。去十二日以後病惱。自昨日巳刻及危急之由申之。

※『吾妻鏡』元仁元年(1224年)12月24日条

【意訳】晴れ。伊豆国北条から飛脚が到着。義時(右京兆)の後家尼(のえ)が12月12日に発病し、12月23日の午前10:00ごろ危篤に陥ったとのこと。

かくして「伊賀氏の変」は終結。名実ともに俺たちの泰時が鎌倉幕府の第3代執権に就任したのでした。

終わりに

以上、義時の死後に泰時が家督を継ぐまでの流れを紹介してきました。またしても平六の裏切りが勝負を分けています。

なお、泰時は“のえ”たちに担がれた政村は不問に処しており、また謀反の存在も否定。そして嘉禄元年(1225年)7月11日に政子が亡くなると、伊賀兄弟をそれぞれ赦免しました。

表向きは功徳を積んで政子の冥福を祈るためとしていますが、泰時は承久の乱において真っ先に命を棄てた伊賀の長兄・伊賀光季(演:日笠圭)の献身に報いたかったのでしょう。

「鎌倉に忠義を貫き、絶望的な状況下で最期まで闘い抜いた光季の一族を、このまま滅ぼしてしまうなんて許せない!」

執権の座どころか、鎌倉殿さえも害そうとしていた謀叛人に対してわずか一年で赦免とは、納得いかない御家人も少なくなかったはず。

しかしこれが実際に通っていることから、そもそも謀反というのは(伊賀一族を粛清したかった)政子の言いがかりで、その政子が亡くなったから「もういいだろう」と赦免した可能性も考えられます。

ともあれここに源頼朝(演:大泉洋)の死から20年以上にわたる御家人間抗争は幕を下ろし、泰時が生きている間はしばし(比較的)平穏な時代が訪れるのでした。

かくして不安定ながら泰平の世をもたらした俺たちの泰時。しかし彼が偉大なるゆえに、その死は間もなく動乱の火種となるのですが、その話しはまたの機会に。

※参考文献:

  • 永井晋『鎌倉幕府の転換点『吾妻鏡』を読みなおす』NHK出版、2000年12月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
 

RELATED 関連する記事