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24名が極刑!完全非公開で裁判が行われた日本史上最悪の冤罪事件とは

24名が極刑!完全非公開で裁判が行われた日本史上最悪の冤罪事件とは

1910年に発覚した日本史上最悪とよばれる「大逆事件」では、政府により12人もの社会主義者が「冤罪」で死刑に処されています。思想の違いや時代背景なども絡み、事件の背景には何があったのでしょうか。

天皇と日本臣民

旧日本国憲法が発布された1890年~1947年、「大日本帝国」とよばれた当時の日本では、「戦争をはじめる権利」や「官僚を自由に任命する権利」などの国家に関する権限はすべて天皇にあると定められていました。

そのため、天皇や皇族を除くすべての日本国民は、天皇に仕える民を意味する「日本臣民」として扱われたのです。

大逆事件が発覚した1910年は、大日本帝国真っただなかの出来事であり、反戦や平等といった思想を持って政治活動を行う「社会主義者」が政府によって厳しく弾圧されていた時代でもありました。

幸徳秋水

当時、社会主義思想の中心的な人物となっていたのが「幸徳秋水(こうとくしゅうすい)」と言われる人物です。

幸徳秋水は「社会的弱者である労働階級の人々は国境を越えて団結するべきである」といった社会主義に基づく思想から、非戦論や博愛の必要性を提唱するため、平民新聞を刊行します。

日露戦争の影響で高まっていた主戦思想に対して反戦の声を上げた平民新聞に対し、国家は「国家に危険を与える刊行物」と判断。刊行者の幸徳秋水を新聞紙条例違反で5ヵ月の禁固刑に処したのです。

幸徳秋水は釈放後、社会主義への弾圧が強い日本を離れ、アメリカのサンフランシスコへ渡航。

そこで、国家や権力そのものを否定する「無政府主義」について学びはじめます。

激化する社会主義への弾圧

幸徳秋水が渡米していた頃、日本では社会主義者を弾圧しすぎると過激なことにつながる可能性があるとして、社会主義政党「日本社会党」の設立が認められました。

この約1年後、帰国した幸徳秋水は日本社会党内で無政府主義の思想を広めます。しかし、党内では社会主義と無政府主義のあいだで内部分裂が勃発。また、無政府主義の思想が流入した日本社会党を政府が危険視し、1907年に日本社会党の解散を命じました。

翌年の1908年、幸徳秋水を崇拝する一部の社会主義者が集会を開き、無政府共産や社会革命と書かれた赤旗を掲げたことを快く思わなかった政府は14名を逮捕。さらに社会主義者や無政府主義者に対して弾圧や厳しい取り締りをおこないました。

大逆事件

1910年、平民新聞の愛読者で社会主義思想の影響を受けていた「宮下太吉」という男が、長野県安曇野市明科にて無許可で製造した爆弾を爆発させた「明科事件」が発生。宮下太吉が爆発物取締法違反で逮捕されたほか、本事件を重く受け止めた政府が「社会主義者が天皇暗殺計画のために爆弾を製造したのではないか」と考え、大規模な捜査を開始しました。

全国で100人以上もの社会主義者が検挙され、宮下を含めた26名が、天皇暗殺計画の容疑者として起訴されたのです。

2ページ目 暗黒裁判〜天皇の恩恵と冤罪

 

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