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【承久の乱】あの名演説は政子じゃなかった?『承久軍物語』が伝える別バージョンがこちら【鎌倉殿の13人】

【承久の乱】あの名演説は政子じゃなかった?『承久軍物語』が伝える別バージョンがこちら【鎌倉殿の13人】

一方、『承久軍物語』バージョンでは?

……去程に。御一門を初めとして。その名きこふる侍ひたちを二位どのヽ御まへにめして。今度の御大事のいけんをとはる。覺阿善信ら申ていはく。いかさまにも武士どもを差登せられ。官軍をせめほろぼさんにはしかじと申せば。二位殿も然るべしと領承し給。いかに侍どもたしかにきけ。日本國の侍は。むかしは三とせの大番とて。帝都を守護する事。一ごの大じと思ひ。家のこ郎等まで。はれらかに出たちてのぼるといへども。三とせの在京にちからつき。國にくだる時は。かちはだしにて歸しを。故う大しやう殿これをあはれませ給ひ。三とせを六月につゞめ。分に従ひ人のたつせるやうにしはいし給へば。よろこぶ事限なし。かヽる御なさけ深きお心ざしをも忘れまいらせ。こんど京がたの御かた仕らんか。又関東に。御奉公仕らんか。只今たしかに申きれと。のたまひしかば。これをうけ給はる大名小名。みなヽヽ涙を流して申けるは。心なき鳥類畜類までも、人の恩を感ぜずといふことなし。ましていはんや。人間の身として。代々厚恩をいたゞき。あに木石におなじからんや。一めいをばまいらせをくうへは。力の及ばん程は。責戦ひ。かたきのぢんを枕として。打死せんより外の事候はずと……。

※『承久軍物語』より

結論から言うと政子は演説をしておらず、大江広元(演:栗原英雄。出家して覺阿)と三善康信(演:小林隆。出家して善信)が政子の了承を得て熱弁を奮っています。

「侍ども、確かに聞け。かつて日本国の侍は京都大番役の務めを課せられておった。畏れ多くも帝都をお守りできる誇りを胸に、一族郎党みな晴れがましく上洛したが、三年の務めを果たした後はボロボロになって帰ったものじゃ。馬は売ったか食ったか歩きで、草履もすり切れて裸足で、それはもう惨めな姿じゃった。それを憐れまれたのが、我らが鎌倉殿じゃ。右大将家(源頼朝公)は大番役の任期を三年から半年に短縮され、無理なく務めを果たせるよう取り計らって下さり、みな歓喜に沸き立ったものじゃ」

頼朝公の死から早20年が経っており、かつて京都大番役をはじめ各種の苦役が課せられ、犬馬の如く引き働かされたことなど体験していない世代が増えてきていたのです。

武士は地下人(ぢげにん)などと呼び蔑まれ、公家たちの家畜同然に扱われた記憶が残っている者は、当時を思い出して悔し涙を堪えたことでしょう。

「……しかし歳月は流れてそんなことも知らず、鎌倉殿の深き御恩を当たり前のことと思い上がっておる者は、此度の戦さで京方へ味方するのか。それとも坂東武者の誇りを守るため、鎌倉へご奉公するのか。今すぐこの場でハッキリ申せ!」

こうまで言われて「ハイ朝廷にお味方します」と言える坂東武者はいないでしょう。

「鳥や獣たちだって、人間が愛情をかければその恩を感じないことはない。まして人間の、しかも代々にわたり厚き御恩をいただいた我らが、木石と同じ(恩義を感じない)ということがあるはずもない。一命を賭して全力で戦い、異郷の地に討死を辞さぬことこそ、ただ一つの答えだ!」

こうして坂東武者たちの心は一つになり、いざ決戦に臨むのでした。

3ページ目 慈光寺本『承久記』に見る御家人たちの本音?

 

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