親族に所領を奪われた慈恩(じおん)。「元寇」以後、姿を消していく女地頭たち【鎌倉時代】
昔から「泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ」などと言うように、守護の下で領国支配の実務を担う地頭は(少なくとも領民にとって)強大な権限が認められていました。
なので地頭と聞くとコワモテの男性を連想しがちですが、鎌倉時代には女性の地頭(女地頭)も少なからず活躍していました。
従来の律令では認められなかった女性の家督相続や地頭就任が、東国では武家の慣習として御成敗式目に定められたのです。
しかし、元寇(文永の役・弘安の役)をキッカケに西国では臨戦態勢を維持するため、女性の地頭が認められなくなっていきました。
今回はそんな女地頭の一人・慈恩(じおん)のエピソードを紹介したいと思います。
名義を借りたが運の尽き
慈恩は現在の福岡県東部から大分県北部に当たる豊前国で地頭を務めていました。
※慈恩という名前は恐らく法名であり、夫に先立たれた未亡人として地頭職と遺領を受け継いだのでしょう。
ある時、幕府当局より現地の地頭と所領について申告を求められた時、こんな話を耳にします。
「どうやら今後、女子(おなご)の地頭は認められず、その所領は没収されるそうな」
そんな理不尽な……しかし一地頭が反対したところで幕府当局を相手に太刀打ちなどできません。
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