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「鎌倉殿の13人」死角から現れる刺客は公暁か、あるいは…第43回放送「資格と死角」予習

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政子、上洛する

時は建保6年(1218)2月4日、尼御台・政子は熊野詣でのため鎌倉を出発しました。

同行するのは弟の北条時房(演:瀬戸康史)と、亡き稲毛重成(演:村上誠基)の孫娘。彼女は重成の娘が綾小路師季(あやのこうじ もろすえ。源師季)との間に産んだ子で、土御門通行(つちみかど みちゆき。土御門通親の子)のもとへ嫁がせると言います。

一行は2月21日に入洛(じゅらく。京都へ到着すること)、熊野詣でなどの用事も無事に済ませて4月15日に出発。鎌倉へは4月29日に帰ってきました。

……ソノ同二月廿一日ニ。実朝母ハ熊野ヘ参ラントテ京ニ上リタリケルニ。卿二位タビタビユキテヤウヤウニ云ツツ。尼ナル者ヲハジメテ三位セサセテ。四月十五日ニ下リニキ……

※慈円『愚管抄』第六巻より

【意訳】2月21日、実朝の母(政子)が熊野詣でのため上洛してきた。藤原兼子(卿二位)はたびたび宿所を訪問して様々なことを話し、彼女を三位に推薦。そして4月15日に帰って行った。

4月14日付で政子は初めて位(従三位)を授かり、いきなり公卿(3位以上の最上級貴族)の仲間入りです。これについては朝廷の中でもちょっと議論を呼んだらしく、『吾妻鏡』にもそのことが書いてあります。

晴。申剋。尼御臺所御還向。南山御奉幣無爲。御在京之間有珎事等。去四日御幸于大秦殿。仍立御車於三條河原邊。令見物給。因茲。御幸之儀殊被刷之云々。同十四日可令敍從三位之由宣下。上卿三條中納言〔參陣〕。即以淸範朝臣。被下件位記於三品御亭。此事儀定及細碎歟。出家人敍位事。道鏡之外無之。女敍位者。於准后者有此例。所謂。安徳天皇御外祖母也。亦知足院殿御母儀准后事。適出家以後也。仍以彼准據被敍之云々。同十五日自仙洞可有御對面之由雖被仰下。邊鄙老尼咫尺龍顏無其益。不可然之旨被申之。抛諸寺礼佛之志。即時下向給云々。

※『吾妻鏡』建保6年(1218年)4月29日条

出家した者に官位を与えるのは、逆賊・道鏡(どうきょう)の悪しき前例のみ。と思ったら、藤原全子(ふじわらの ぜんし/またこ。知足院殿・藤原忠実の母)も出家後に官位を授かっていたので、めでたく認められたようです。

また、この他にも4月4日に後鳥羽上皇(演:尾上松也)の行幸を見物するなど楽しんだようですが、その上皇陛下(仙洞)より「対面を許す」との仰せがあるとこれを辞退しました。

「畏れ多くも上皇陛下に、こんな田舎婆さんがお会いするなど、お目汚しになるだけです」

【読み下し】辺鄙(へんぴ)の老尼(ろうに)、龍顔(りゅうがん。高貴な=陛下のお顔)の咫尺(しせき。お近づきになること)その益なし。

実に慎み深い態度ながら、実のところは取り込まれまいと敬遠したのではないでしょうか。そのまま長居するのも気まずいので、辞退した4月15日にすぐさま京都を出発したのでした。

3ページ目 時房、蹴鞠を披露する

 

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