いつ誰が考えた?小野小町はいかにして「世界三大美人」の一人となったか。その経緯を追う【後編】:3ページ目
日本文化のシンボル
さてでは、なぜこの頃に小野小町が理想の女性として持て囃されたかというと、おそらく和歌の名手だったからです。彼女は、日本文化を体現するシンボルとして賞賛されたのでした。
その頃、日本は西洋化を目指していたものの、国内ではその反動として、日本文化や日本的な伝統に立ち返ろうという動きも生じていました。それは近代のナショナリズムやアジア主義にもつながっていきます。
こうした風潮の中で、小野小町は日本文化を体現する素晴らしい存在だとされたのです。こうしたナショナリズムを背景に考えると、「世界三大美人」にヨーロッパの女性がいないのも頷けますね。
実際、彼女の歌風はとても華やかでした。『古今和歌集』の序文でも、その素晴らしさはピックアップされています。
もうひとつ、有名な漢詩文『玉造小町子盛衰書』の影響もあります。これは、一人の美しい女性が老いさらばえて衰えていく物語なのですが、この主人公の名前が「小町」で、もともと小野小町とは無関係だったのですが、美人という共通点だけで混同されるようになりました。
うして、想像、憶測、時代背景などがさまざまに絡み合って、小野小町は美人だったという伝説や、彼女は世界三大美人の一人であるというイメージができあがっていったのです。
参考資料
東大発オンラインメディアumeeT