いつ誰が考えた?小野小町はいかにして「世界三大美人」の一人となったか。その経緯を追う【後編】:2ページ目
明治時代以降の「女性論」と小野小町
では、近代以降に小野小町が「美人」として受け入れられた際、彼女はどのような意味で理想的なキャラクターと見なされたのでしょうか。
例えば戦前は、足利尊氏や平将門は、天皇家に楯突いた人物だということで「極悪人」と見なされていました。
このような時代の空気の中では、彼らを「カッコイイ」理想的なキャラクターと見なすような考え方は一般的ではなかったでしょう。
よって、小野小町が「美人」と見なされたのも、近代以降の時代の空気にマッチした部分があったからだと言えます。
そしてそれは、世界三大美人のカテゴリーに西欧の女性が入っていないことと大きな関係があります。
日本で「世界三大美人」という括りが生まれたのは明治時代の中期頃からです。当時から大正時代にかけて刊行された雑誌・新聞には、女性論とでも言うべきものが掲載されるようになり、そこで小野小町が三大美人として取り上げられたのです。
著名な言論人だった黒岩涙香も、雑誌に寄せた小野小町論の中で、理想の女性であるとして賞賛しました。
ちなみにクレオパトラが三大美人に入れられた理由は、大正3年に「アントニーとクレオパトラ」という映画が上映されたり、女優の松井須磨子が帝国劇場でクレオパトラを演じたりしたことで名前が知られるようになったからです。
つまりクレオパトラは、当時のエンタテインメントで界隈でちょっと流行っていたキャラクターだったのです。