裏切り者の末路…鎌倉幕府の滅亡後、北条高時の遺児を売り飛ばした五大院宗繁【太平記】:2ページ目
なんて調子のいいことを言って信用させ、邦時を見送るや否や宗繁は船田義昌の陣へ急行。「北条の遺児が伊豆山へ向かっている」と密告したのです。
「どうか所領を安堵していただけるよう、お口添えを……」
(この裏切り者めが!)
内心では唾棄しつつも船田入道は急ぎ軍勢を派遣し、あわれ邦時は相模川で生け捕られました。
本当なら張輿(はりごし。周囲をむしろ等で張った簡素な輿)にでも乗せるところですが、なにぶん急なことで用意もなく、邦時は馬の鞍に縛りつけられたと言います。
「あの子が北条の御曹司か。おいたわしや……」
あまりにもむごい仕打ちに、鎌倉の人々は涙で袖を絞らぬ者はなかったとか。また幼いからせめて命だけはと願う声もありましたが、逆賊の息子であれば捨て置けず、5月29日に斬首されてしまいました。
父・高時の死からわずか7日後のこと。人々が悲しむ中、宗繁だけは恩賞の心配をしていたようです。
「あの、それがしの恩賞は……」
しかし船田入道から事の次第を聞いた新田義貞(にった よしさだ)は「永年にわたる恩義を忘れ、恩賞に目が眩んで主君の遺児を売り飛ばすとは不忠も甚だしい!」として、宗繁の処刑を決定しました。
「何だと、せっかく味方してやったのに!」
地獄耳で情報を聞きつけた宗繁はすぐさま鎌倉を脱出。そのまま逃げのびようとしましたが、行く先々で邦時を裏切ったことを非難され、追い出されてしまいます。
「裏切り者!人でなし!出て行け!」
「お前に食わせる飯などあるもんか!」
どこまで行ってもどこまで逃げても、人々は邦時を売り飛ばした悪行をしっており、誰一人として助けてくれる者はありません。
そしてついには行き倒れ、餓死してしまったということです。
終わりに
以上、『太平記』巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事(ごだいいん うゑもんむねしげ、さがみのたろうをすかす≒だますこと)」のエピソードを紹介しました。
恩賞に目が眩んで主君を裏切ったものの、その不忠により結局は非業の末路をたどった事例は枚挙にいとまがありません。
恥辱に命を永らえるなら、忠節を貫いて名誉をまっとうした方がよほどよい。今回の件はそんな教訓を残しているようです。
※参考文献:
- 兵藤裕己 校註『太平記 一』岩波文庫、2014年4月