元久2年(1205年)6月22日、無実の罪によって非業の死を遂げた畠山重忠(演:中川大志)。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では嫡男・畠山重保(演:杉田雷麟)も同じく粛清されていましたが、重忠の息子は他にもいました。
その末子が畠山重慶(ちょうけい)。出家の身であったため、重忠の「謀叛」に連座することはなかったものの、後に非業の死を遂げたとされます。
今回はそんな畠山重慶にまつわる異説を紹介。彼の運命はどのように変わったのでしょうか。
『吾妻鏡』が伝える畠山重慶の最期
まずは鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が伝える畠山重慶事件のあらましから。
時は建暦3年(1213年。建保元年)9月19日、畠山重慶が下野国(現:栃木県)で謀叛を企んでいると通報が入りました。
「事の真偽を確かめるため、大夫阿闍梨(重慶)を鎌倉へ連行せよ」
鎌倉殿・源実朝(演:柿澤勇人)は下野が地元の長沼宗政(演:清水伸)に命じます。
「御意!」任務を受けた宗政は、御所を退出するや家にも帰らず、そのまま現地へ急行。大層な張り切りぶりですが、勢い余って重慶を生け捕るどころかぶっ殺してしまいます。
9月26日にその首級を持って鎌倉へ帰った宗政。当然ながら実朝は激怒しました。
「生け捕って来いと命じたのに、なぜ殺した!大夫阿闍梨は罪なくして父を討たれており、たとえ復讐を企んでいたとしても無理はなかろう!できればしっかりと説き諭して、和解したかったものを……」
実朝の怒りにも悪びれることなく、宗政は反論します。
「確かに生け捕るのは簡単でしたが、どうせまた尼御台や女官たちに『可哀想だから許してあげて』と言われたら釈放するのでしょう。それがバカバカしいから殺しました。だいたい鎌倉殿は我らの奉公を軽くお考えではないのか……(以下略)」
捕らえろと言うのは簡単ですが、相手だって必死に抵抗するのです。
下手をすれば怪我や返り討ちの危険もあり、そうした「武」に対する評価が低く扱われている事にかねがね不満を持っていたのでした。
「そもそも鎌倉殿は……」
ここぞとばかり、言いも言ったり悪口雑言。そのあまりな言い草に、『吾妻鏡』もその詳述を避ける始末。
これが宗政をして鎌倉一の暴言王たらしめるキッカケとなり、実朝から謹慎を命じられてしまったのでした(翌、閏9月に赦されます)。