本能寺の変、織田信忠の自害…織田家の衰退がなかったらその後の「天下取り」はどうなった?
織田家が衰退した理由
本能寺の変で織田信長が討ち死にしたことで、その後の「天下取り」の流れはどのように変わっていったのでしょう。
「もし織田家が力を持ち続けていたら」という視点を交えて考察してみます。そもそも、1582年の本能寺の変で信長が亡くなっても、後継者がしっかりしていれば織田家は衰退しなかったでしょう。
ではなぜ衰退したのかというと、長男の織田信忠が自害したためです。彼は父の救出を試みたものの失敗し、二条城へ退却。そこで奮戦したものの、26年の生涯をそこで終えることになりました。
その後、織田家の後継者を決めるための清洲会議が開かれました。これには織田家の家臣である柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉の4人が出席し、後継候補として次男の信雄、三男の信孝、信忠の嫡男(つまり信長の孫)である秀信の3名の名前が挙がります。
ちなみに、秀信は当時三歳で、幼名を「三法師」と言いました。
この会議では、明智光秀を討ち取った功労者である羽柴秀吉の発言力が大きかったようです。その結果、彼が推した秀信が後継に決まりました。
普通に考えて三歳児を後継にするというのは、織田家を弱体化させて、秀吉自身が天下統一するための素地を作ろうとした意図が丸わかりです。実際、彼が天下統一を果たしたのはそのたった6年後の1588年でした。