織田信長の準正室!?「生駒吉乃」という女性が戦国時代にもたらした大きな影響【後編】
【前編】では、信長の「準正室」的な扱いだった生駒吉乃が、3人の子をもうけたところまで説明しました。
織田信長の準正室!?「生駒吉乃」という女性が戦国時代にもたらした大きな影響【前編】
側室となるも…
さて、1563(永禄6)年、美濃攻略の拠点として現在の愛知県に小牧山城を築城した織田信長は、そこに吉乃のための御台御殿を建て、生駒吉乃を迎え入れるべく生駒屋敷へ使者を送ります。
しかし、吉乃の兄・八右衛門家長から吉乃の体調が悪く移動できないと連絡があり、このとき初めて信長は吉乃の体調を知ったのです。
知らせを受けた信長は自ら生駒屋敷に赴き、吉乃を輿に乗せ小牧山城へ連れて行きました。
これは破格の扱いでした。本来、輿は吉乃のような身分では乗れないもので、信長にとって彼女がいかに大切な存在だったかが分かります。
入城した吉乃は家臣たちに嫡男・信忠の生母として披露され、正式に側室となりました。
しかしその後も彼女の病状は回復せず、信長自ら頻繁に見舞うなどしましたが、小牧山城に移った翌年の1566(永禄9)年、39歳で死去します。
魔王の涙
吉野が逝去すると、信長は人目もはばからずに三日三晩泣き続けたと言われています。このあたりのエピソードから、生駒吉乃は「信長に最も愛された女性」として有名になりました。
彼女には久庵桂昌大禅定尼というおくり名がつけられ、信長から香華料として660石が菩提寺である久昌寺に贈られました。
吉乃の墓は現在も久昌寺に残されていますが、実はこの寺には専属の住職がおらず、2022年には建物の老朽化から維持管理が難しいとして廃寺となっています。