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「鎌倉殿の13人」時政・りくの謀叛計画「牧氏の変」を慈円はこう見た。第37回放送「オンベレブンビンバ」予習

「鎌倉殿の13人」時政・りくの謀叛計画「牧氏の変」を慈円はこう見た。第37回放送「オンベレブンビンバ」予習:3ページ目

平賀朝雅の最期

さて京に朝政(朝雅)があるを、京にある武士どもに討てと云仰せて此由を院奏してけり。
京に六角東洞院に家つくりて居たりける。武士ひしと巻て攻めければ、しばしは闘いて終に家に火かけ、打出て大津の方へ落ちにけり。わざと後ろをばあけて落とさんとしけるなるべし。
山科にて追武士どもありければ、自害して死にける首を、伯耆國守護武士にて金持(かなもち)と云者ありける。取てもて参りたりければ、院は御車にて門に出て御覧じけると聞へき。これは元久二年後七月廿六日(閏7月26日)の事なり。

※『愚管抄』第六巻より

【意訳】時政夫婦が片付いたら、今度は京都の朝雅。御家人たちに朝雅追討を命じ、後鳥羽上皇には院宣を求めた。
さっそく六角東洞院の平賀邸は包囲され、朝雅もしばし意地を見せたものの衆寡敵せず。館に火をかけて大津方面へ逃亡するも、あえて一方だけあけて誘導されていたのである。
追撃を受けた朝雅は山科の辺りで自害。その首級は伯耆国(現:鳥取県西部)の守護職・金持ナニガシが獲って後鳥羽上皇のご覧に入れた。

「ほう……それが平賀とやらの首か」

上皇陛下は御車の中からチラリと覗き見られたとか。時に元久2年(1205年)閏7月26日であった。

(ふん、しくじりおって……役立たずが)

じっさい後鳥羽上皇がそう思ったかはともかく、汚らわしいものを見る目をしていたであろうことは想像に難くありません。

果たして幕切れとなった「牧氏の変」。朝廷が黒幕だったのか否か、その辺りのアレンジが次回の見どころとなりそうです。

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