無実の罪で滅ぼされた畠山重忠の末子・畠山重慶にも謀叛の疑い…その運命やいかに【鎌倉殿の13人】:2ページ目
まさかの逆ギレ!言うも言ったり悪口雑言
天晴。晩景宗政自下野國參着。斬重慶之首。持參之由申之。將軍家以仲兼朝臣被仰曰。重忠本自無過而蒙誅。其末子法師縱雖挿隱謀。有何事哉。随而任被仰下之旨。先令生虜其身具參之。就犯否左右。可有沙汰之處。加戮誅。楚忽之議。爲罪業因之由。太御歎息云々。仍宗政蒙御氣色。而宗政怒眼。盟仲兼朝臣云。於件法師者。叛逆之企無其疑。又生虜條雖在掌内。直令具參之者。就諸女性比丘尼等申状。定有宥沙汰歟之由。兼以推量之間。如斯加誅罸者也。於向後者。誰輩可抽忠節乎。是將軍家御不可也。凡右大將家御時。可厚恩賞之趣。頻以雖有嚴命。宗政不諾申。只望。給御引目。於海道十五ケ國中。可糺行民間無礼之由。令啓之間。被重武備之故。忝給一御引目。于今爲蓬屋重寳。當代者。以哥鞠爲業。武藝似廢。以女性爲宗。勇士如無之。又没収之地者。不被充勳功之族。多以賜靑女等。所謂。榛谷四郎重朝遺跡給五條局。以中山四郎重政跡賜下総局云々。此外過言不可勝計。仲兼不及一言起座。宗政又退出。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月26日条
さて、宗政が鎌倉へ帰って来たのはちょうど7日後の9月26日。満面の笑みで抱える首桶の中身は、もはや聞くまでもありませんでした。
それを知った実朝の怒るまいことか。源仲兼を通じて宗政を叱責します。
「バカモン!もともと畠山殿は無実の濡れ衣で殺されてしまったのだから、その息子が仇討ちで謀叛を企んだとしても当たり前ではないか!だからこそ軽々に処断せず、事情を取り調べかつ説諭することで怨みの連鎖を断ち切るべきと言うのに……軽はずみにも程がある!」
生け捕れと命じたのに殺してしまうとは何事か……実朝の怒りは至極もっともですが、ここで素直にしょげ返るような宗政ではありません。
「あのな。確かにあの坊主を捕らえるのは訳もなかったさ。だがよ、ここへ連れてきたら、どうせ取り巻きの女官どもやお母ちゃん(尼御台・北条政子)に『可哀想だから助けてあげて』とか何とか言われて無罪放免にしちまうンだろ?だからブッ殺してやったンだよ。文句あるか!
だいたい御当代は甘っちょろ過ぎるんだよ。亡き大殿(源頼朝公)のころは武勇こそ奉公の第一と重く賞せられたモンだ。それがしも大殿から褒美をやろうと言われたが、それがしは『引目(ひきめ。鏃のない鏑矢。蟇目)を一筋頂ければ、東海道十五ヶ国を従えて見せましょう』と啖呵ァ切ってよ。その手柄で賜った引目は今でも家宝にしてるのサ。あの頃はよかったナぁ。
しかし今の鎌倉殿と来たら、和歌だの蹴鞠だのにお熱を上げて、武芸なんかそっちのけじゃねぇか。取り巻きはみんな女どもばかりで、いざ有事にはそいつらが御身を守るのかよ?
所領だって武功のある御家人にはくれねぇで、ほとんどお気に入りの女どもにくれてやるばかり。畠山討伐と言えば榛谷四郎(はんがや しろう。榛谷重朝、重忠の従弟)の所領は五条局(ごじょうのつぼね。詳細不明、藤原定家の母とは別人物)にくれてやり、中山四郎(なかやま しろう。中山重政、重忠の子)の土地は下総局(しもうさのつぼね。千葉介常胤の孫娘)にやっちまった。
ちょいと訊きてぇンだが、その女どもが畠山征伐で一体何をしたってンだ?命を懸けて斬った張ったするよりも、鎌倉殿と乳繰り合ってる方が恩賞に与れるってぇなら、いざ有事に誰がアンタを護るンだ?おいてめぇこの野郎、口があるなら云とか寸とか言いやがれ……!」
まぁ目玉を大きくひン剥いて、言うも言ったり悪口雑言。どう見ても逆ギレですが、およそ日ごろの愚痴をぶちまけ三昧。解らなくもありませんが……。
あまりの口汚さは『吾妻鏡』にも記録しきれず、取次役の源仲兼はうんざりして出て行ってしまいました。
「……けっ!」
御簾の向こうにはまだ実朝がいるのかいないのか、虚空に叫んでもしょうがねェ……と仕方なく宗政も帰宅したと言うことです。