無実の罪で滅ぼされた畠山重忠の末子・畠山重慶にも謀叛の疑い…その運命やいかに【鎌倉殿の13人】:3ページ目
終わりに・許された宗政
そんな事があって、宗政は謹慎を命じられてしまいました。謹慎くらいで済んでよかったですね。
「あンだよ兄者、別にいいって……」
「そうは行かん。いいから御所(実朝)に陳謝申し上げるのじゃ!」
依小山左衛門尉朝政申請。舎弟長沼五郎宗政被宥御氣色。及出仕云々。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)閏9月16日条
【読み下し】小山左衛門尉朝政の申し請けにより、舎弟長沼五郎宗政が御気色(みけしき)をなだめらるに及び、出仕す云々。
実朝を罵倒してから20日が過ぎた閏9月16日。宗政は兄・小山朝政(おやま ともまさ)に連れられて御所へ謝りに行くのでした。
「こやつのクチの悪さは兄としても手を焼いておる所ではございますが、なにぶん粗忽な坂東武者なれば、鎌倉殿への忠義ゆえとご寛恕たまわりたく……ホレ五郎!」
「すぃやせンでしたー」
「……うむ」
かくして一件落着。しかし殺されてしまった重慶が生き返る訳ではなく、畠山一族の命脈は断たれてしまったのでした。
余談ながら、坂東の名族である畠山の名跡を惜しんだ北条氏は重忠の未亡人(時政の娘)を足利義純(あしかが よしずみ)に嫁がせ、畠山の家督と遺領を相続させます。
これが後に能登国(現:石川県北部)の守護大名・畠山氏となるのですが、それはまた別のお話し。
※参考文献: