徳川家康の源氏姓改称問題。新興勢力なだけに、認められるのに苦労した!? :2ページ目
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もともと家康の祖先は三河の土豪の生まれで、祖先の出自についてははっきりしたことはわかっていませんでした。
すでに三河国の在地領主のとして三河一国平定を進めていた家康としては、隣国の今川・武田といった清和源氏の流れを汲む諸勢力と対抗し、三河国内にある吉良などの名族を支配下に収めていくためには、従前の土豪の出自のままでは限界があったため、自らの立場を正当化してくれる政治的権威が必要でした。
貴族の身分に連なる従五位下の位階と三河国の主の証でもある三河守はなんともしてでも必要でした。
これらの爵位を得るためには松平の名前では先例のないことから、清和源氏の一族新田の末流で或る徳川(得川)義季に系譜上のつながりを求めて、これを申し立てて徳川と家名を改めることになったのです。
土地の実効支配の根拠を朝廷の位階と官位に権利を求めるということは家康だけでなく当時は多くの戦国大名が行っていたようで、当時の新興勢力であった武士達の苦労がうかがえます。
参考
笠谷 和比古 1997「徳川家康の源氏改姓問題」『日本研究:国際日本文化研究センター紀要』16
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