なぜ「捨て奸」が必要だったのか?
かの島津義弘は、関ケ原の戦いで有名な「捨て奸(すてがまり)」というある種の玉砕戦術を採用しています。
死亡率100パーセント!日本史上唯一の玉砕戦法「捨て奸(すてがまり)」とは!?
命を賭した戦法乱世の戦国時代がいよいよ終わりつつあった1600年、かの関ヶ原の戦いで、島津義弘が企てた「捨て奸(すてがまり)」という戦略がありました。[caption id="attach…
それにしても、なぜこの壮絶な戦術が必要になったのでしょうか。その経緯を辿ると、関ケ原の戦いで島津が負った苦労と悲運が見えてきます。
島津義弘は薩摩国(現在の鹿児島県)の武将です。兄である戦国大名・島津義久を補佐し、島津家の勢力拡大に尽力していました。豊臣秀吉とは九州平定の際に一戦交えたものの、その後は秀吉に協力し、朝鮮出兵にも参戦しています。
その勇猛果敢で鬼気迫る戦い方から、義弘は朝鮮・明軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれ恐れられたといわれています。
義弘は秀吉と良好な関係を保っていましたが、長年九州を支配してきた島津家の中には秀吉に従うことに不満を持つ家臣が多く、中央政権の命令や要請に対して非協力的な態度をとる者も少なくありませんでした。
そして秀吉の死後、関ケ原の戦いが起こる直前の1599年に、島津家中で「庄内の乱」が勃発します。