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「鎌倉殿の13人」いよいよ源義経の最期まで突っ走るか?第20回放送「帰ってきた義経」予習

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義経を守るべきか…分裂する六兄弟

(前略)今日。秀衡入道於陸奥國平泉舘卒去。日來重病依少恃。其時以前。伊豫守義顯爲大將軍可令國務之由。令遺言男泰衡以下云々。
(以下、秀衡の略歴)

※『吾妻鏡』文治3年(1187年)10月29日条

「息子たちよ。心して聞け……我が亡き後は、九郎を大将軍に立て、そなたら兄弟が心ひとつにお支えするのじゃ。それ以外に、平泉を守る手立てはない」

「「「父上!」」」

文治3年(1187年)10月29日に秀衡が没すると、奥州藤原氏の家督は次男の藤原泰衡(演:山本浩司)が継承します。

この時、秀衡には6人の息子がいました。

長男・藤原国衡(くにひら。演:平山祐介)
次男・藤原泰衡(やすひら。演:山本浩司)
三男・藤原忠衡(ただひら)
四男・藤原高衡(たかひら)
五男・藤原通衡(みちひら)
六男・藤原頼衡(よりひら。演:川並淳一)

『吾妻鏡』や『愚管抄』など同時代史料に登場するのは四男の高衡までで、通衡と頼衡の名前は『尊卑文脈』などに限られ、実在性を疑問視する説も。

「さて、これからどうするか……」

家督を継いだ泰衡ですが、彼は義経を擁立しても奥州を支えきれないと早々に見切りをつけ、義経を討って頼朝と和解する方針を示しました。

「父上のご遺言に叛き、奥州の誇りを棄てられるおつもりか!」

泰衡に反対したのは忠衡・通衡・頼衡の3名。国衡と高衡は泰衡寄りであったと見られます。

「黙れ!誇りだけで奥州が守れるものか。そもそも誇りと申すなら、よそ者である九郎殿を担ぐのは筋違いであろうが!」

兄弟が分裂・対立する中、文治5年(1189年)2月15日に六男の頼衡が泰衡によって討たれました。

「我が意に逆らう者は、この通りじゃ!」

その3か月後となる閏4月30日、泰衡は数百騎の軍勢を率いて義経の元へ向かいます。

3ページ目 義経の最期と弟たちの謀叛

 

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