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「鎌倉殿の13人」義高、助かるかも?期待させておいてからの…第17回放送「助命と宿命」振り返り

「鎌倉殿の13人」義高、助かるかも?期待させておいてからの…第17回放送「助命と宿命」振り返り:3ページ目

一条忠頼(演:前原滉)&武田信義(演:八嶋智人)

義仲討伐で武功を立てたにもかかわらず、自分たちには恩賞がない……不満をくすぶらせつつ、戦勝祝いの名目で鎌倉へやってきた武田信義とその嫡男・一条忠頼。

かねがね源氏の棟梁をめぐって対立してきた信義は、幽閉されている義高に接近して謀叛をそそのかしました。

しかし義高は父の遺訓を守ってこれを峻拒。改めて大義に生きた義仲の大器と、その精神をしっかりと受け継いだ義高の男ぶりが際立ちます。

やがて義高が討たれると、義高を救えなかった八つ当たりとばかり忠頼は誅殺。信義は起請文を書かされ、頼朝の軍門に屈する形となりました。

信義「謀叛とは何か!謀叛とは家人が主人に対して行うこと。わしは一度も頼朝を主人と思ったことはないわ!」

こうして義仲に次いで信義も源氏の棟梁争いから脱落。源氏の中で頼朝に対抗しうる存在はいなくなったのでした……今のところは。

信義「この武田信義、頼朝殿に弓引くつもりなど微塵もなかった。息子は死ぬことはなかったのだ!」

ちなみに『吾妻鏡』によると信義が頼朝に対して「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」き旨を起請文に書かされたのは養和元年(1181年)のこと。

その理由は、後白河法皇が信義に対して頼朝追討を命じたという風聞が流れたためと言われています。

また、忠頼が粛清されたのは元暦元年(1184年)6月16日とドラマでは粛清と起請文の前後が逆に。

『吾妻鏡』によると武田信義は文治2年(1186年)に59歳で病没したと言われます。しかし同じ『吾妻鏡』で建久元年(1190年)の頼朝上洛に随行していたり、建久5年(1194年)の東大寺造営などに参加していたりなど、記述に矛盾が見られます。

この場合、文治2年(1186年)に没したのが信義でなかったか、あるいはその後も活躍したのが信義でなかったかのどちらかに。

いずれにせよ、武田が甲斐源氏の実力者として相応に重んじられ、信義の子孫たちも大いに活躍しています。

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