【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その1:2ページ目
政子の悋気(りんき)の特徴とは
天皇家・公家・武家に限らず当時の貴種[高貴な家柄の者]にとって、子孫を残すため正室の他に多数の女性を側室とすることは至極当然のことでした。正室もまた、家の存続のために夫が他の女性と関係を持つことを許すとともに、後宮[その家に属する正妻・側室・召使などの女たち]の管理者として重要な役目も担っていたのです。
だが、北条政子は全く違っていたのです。彼女は非常に悋気[(りんき)情事に対する嫉妬心]の激しい女性でした。その悋気ゆえに大進局の懐妊よりも前に、事件を引き起こしているのはよく知られています。
牧の方:政子殿、ご存知か。亀の前が鎌倉殿の子を産んだそうですよ。
政子:母上様、それは誠ですか!本当だとしたら一大事。いかがいたしましょう。
牧の方:兄宗親に頼んで、懲らしめてやりましょう。
1182(寿永元)年8月、頼朝が流人時代から寵愛していたといわれる亀の前が出産したことを聞くと、彼女が暮らしていた伏見広綱[頼朝の右筆]の屋敷を、牧の方(まきのかた)[父北条時政の継室]の兄牧宗親(まきむねちか)に命じて襲わせました。この時、亀の前は命からがら逃亡、赤子の消息は知られていません。
この事件は、その後に大騒動に発展しています。政子の逆鱗に触れた広綱は流罪、宗親は許しなく亀の前を襲ったことを頼朝から激しく咎められ逐電。それに反発した時政は、一時伊豆に立ち退くという事態に陥ったのでした。
政子の側室に対しての悋気には、特徴があります。それは頼朝が側室をつくることは大目に見ても、側室の懐妊・出産に対しては非常に厳しい態度をとっていることです。
政子にとって頼朝の跡継ぎは自分が産んだ子、すなわち北条の血が流れていることが絶対条件でした。他氏の血筋である側室が生んだ男子がその地位に就くことを、政子は断じて許さなかったのです。