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幕末期の土佐藩主・山内容堂は本当に極悪人だったのか?その実像に迫る

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「差別意識」が抜け切らなかった容堂

次に、容堂の中にあった差別意識の問題です。

もともと、土佐のあたりの地域は、山内家以前は長宗我部氏が支配していました。

そのため長宗我部氏側の土着の侍は、山内家とその家臣がやってくると、身分の低い地位に追いやられます。

ここに、土佐藩独特の差別構造が生まれます。

この差別構造は山内家の中で先祖代々引き継がれ、容堂も土着の侍のことを蔑視していました。

坂本龍馬、武市半平太などの人物、伝記・小説・漫画でよく言われる「郷士」ですね。

容堂はこの差別意識がいつまでも抜けず、身分の下のものを軽んじていました。

興味深いエピソードがあります。坂本龍馬は勝海舟の弟子でしたが、勝が容堂に坂本龍馬のことを話しても「知らない」と答えたそうで、軽んじていた、無関心だったことが読み取れます。

倒幕派の武市半平太に切腹を命じたのも、腹心だった吉田東洋を暗殺した報復という意味合いもあったのでしょう。差別意識が邪魔をして、武市の国を憂える純粋な気持ちを理解できなかったのかも知れません。

先述した「中途半端さ」「差別意識」の2つが、大局を見る妨げとなり、結果として容堂ならびに土佐藩は、幕末から明治にかけての日本史の中で薩長の影に隠れたともいえます。

しかし、晩年はそうしたことを悔いてか、酒が入ると「半平太、許せ」とうわ言を言っていたとか(こういう「もっともな」エピソードは真偽が怪しいことも多いですが)。

また、イギリス公使館員のA・B・ミットフォードが京都の容堂の屋敷を訪問した際、彼のことを「きわめて洗練された優雅な態度で礼儀正しく応対してくれた」と評しています。

また文人気質でもあり漢詩をよく詠みました。

「日和見で、武市半平太を死に追いやった人」という極悪人イメージが強い山内容堂ですが、それは一面的な見方だということが分かります。

もちろん、人間が「極悪人か善人か」で完全に割り切れるわけもなく、当たり前と言えば当たり前なのですが。

それだけに、「悪人」「善人」とレッテルを貼られた歴史上の人物については、立体的に見ていく目線が必要なのでしょう。

ちなみに最初に挙げたマンガ『お~い!竜馬』でも、容堂は基本的に極悪人として描かれているものの、後半になるとほとんど姿を見せません。いつの間にか作中から消えたかと思えば、後藤象二郎らもなんとなく坂本竜馬と和解している……そんな流れになっています。

おそらく漫画の中で「救いようのない極悪人」として描かれてしまったせいで、彼が日本史の中で実際に果たした役割との辻褄が合わなくなったのでしょう。

作画担当の小山ゆうもこの点は苦悩があったようですが、原作者の武田鉄矢が「容堂=極悪人」のイメージを貫いてしまったようです。

参考資料
高知県立坂本龍馬記念館
土佐の人物伝

 

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