幕末期の土佐藩主・山内容堂は本当に極悪人だったのか?その実像に迫る:2ページ目
「中途半端」だった容堂
まず、山内容堂は「中途半端」な人物でした。彼の幕末期の思想的立ち位置が、今だったら中田カウスボタンにネタにされそうなポジションだったのです。
その中途半端ぶりを表す言葉に、「容堂は酔えば勤皇、覚めれば佐幕」というのがあります。
酔えば、というのは、容堂が大の酒好きだったことにちなんだものです。彼は朝廷を政治に参画させるべきだと考える「勤皇派」ではあったものの、土佐藩は徳川家にも強く恩がある立場であったため、「佐幕派」としての気持ちもありました。
なぜ、土佐藩は徳川家に恩義があったのでしょう?
時代は1600年、関ヶ原の戦いに遡ります。
もともと山内家は現在の静岡県にある掛川を治めていましたが、戦いでは最終的に徳川の側につき、功労の印として土佐を統治することになりました。
この出来事があってこそ山内家、そして容堂の今があったわけです。
思想的には勤王派、立場的には佐幕派。この中途半端さのせいで、土佐藩内部でも佐幕派と勤皇派の対立を生み出すことになりました。
その結果、土佐藩は倒幕から明治維新までの流れの中で薩長に遅れをとる結果になったと言われています。