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浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【後編】

浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【後編】:3ページ目

父・喜太郎のその後

喜太郎は釈放されたものの無一文の状態でこれから先どうしたものかと、富山・福光の生糸問屋、前田屋源兵衛を訪れることにしました。

福光の生糸は国内は勿論、銭屋五兵衛の密貿易によって外国にも渡り、その名声を博していました(そうすると鎖国時代以前に海外貿易したことになるのですが)。

前田屋源兵衛は銭屋の資本のひとつである“福光の糸”を残らず買占めて預け置いた家で、そのおかげで財をなすこともできた家です。

喜太郎は妻を従えて前田屋を訪れ、行末を相談しましたが、前田屋は小判数枚を与える他にはとりあうこともせずに、喜太郎夫婦を追い返しました。

喜太郎夫婦は“城端”の善徳寺に参り、刑死した一家の菩提を弔って、僧になろうと山田野の路を苦悩を抱えながら進むのですが、喜太郎は遂に駕篭の中で自殺を計り、56歳の生涯を閉じるのでした。
駕篭からしたたる血潮を、妻が草履で消そうとするそれは哀れな状況だったようです。

その様子を見た村人達は急いで喜太郎を近くの農家へ運び込んみました。そして人々は懸命に看護したそうですが、喜太郎は56歳で亡くなります。

富山県南砺市宗守(旧福光町)には今でも“銭屋の碑”銭屋喜太郎の碑が町の方々の温かい志によって建てられています。

 

最後に

豪商であった銭屋五兵衛は人々の為に尽くそうとして、その人々によって結果としては獄死という最後を遂げます。

その息子・喜太郎は、父のおかげで富を得た人に非情にも追い返され、自害をとげることとなります。
しかし、喜太郎を助けようとしたのは、村の人々でした。

月岡芳年が描いた『月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子』は、娘の千賀を通して描いた父・喜太郎の無念だったのでしょうか。
それとも祖父・銭屋五兵衛の無念さだったのでしょうか。

(完)

 

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