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「三代目マムシ」の毒は死してなお回り続ける!?戦国大名・斎藤龍興の生涯

「三代目マムシ」の毒は死してなお回り続ける!?戦国大名・斎藤龍興の生涯:2ページ目

死後も影響し続けた執念

そんな龍興は、自身が信頼する家臣を寵愛した結果、家臣団の亀裂を招きます。

特に寵愛したのが家臣の「斎藤飛騨守」ですが、彼は日頃から言動が酷く、家中での評判もすこぶる悪い人間でした。

その結果、才覚ある家臣の竹中重治(竹中半兵衛)も見切りをつけたりしています。

もともと斎藤家の家臣団と言っても、彼らは斎藤道三が下剋上でのし上がった時に味方になっただけの人間たちでした。深い忠義があって仕えていたわけではなかった彼らは、どんどん織田方へ流出していきます。

こうして人材不足と裏切りが相次いだ龍興は、織田の攻撃を防ぎきれなくなり、ついに美濃は織田家の支配する国となります。

しかし逃げ出した龍興は、なおも美濃再興の執念を燃やしていました。

彼は畿内へ向かうと、反織田方である三好三人衆と手を組んで抗戦を続けます。さらに石山本願寺を味方につけて反織田方にするなど、信長の天下布武にさまざまな方法で反撃しました。

そして、越前の朝倉義景のもとに出向くと、そこで客将として迎えられて小田川との戦いにも参戦することになります。

しかし織田方の勢いを抑えることはできず、1573年の刀根坂の戦いにおいて26歳の若さで討ち死にしました。

斎藤道三から受け継がれた「マムシ」の執念は、ここで潰えました。しかしその後も石山本願寺と信長との争いは続き、龍興の残した「毒」は死してなお威力を発揮し続けたのです。

参考:
歴人マガジン
武将辞典

 

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