【鎌倉殿の13人】カッコよすぎる!謀叛容疑のピンチをチャンスに変えた畠山重忠の堂々たる答弁がコチラ
今までずっと頑張って来たのに、心ない中傷からその誠意を疑われた……そんな経験、皆さんにはあるでしょうか。
日本史を振り返ってみると、多くの忠臣たちが讒言によって謀叛を疑われ、その対応一つで粛清の憂き目を見てきました。
実際に謀叛を企んでいたのであればまだ諦めもつきましょうが、まったくの濡れ衣だった場合、たとえ無実が証明されても憤懣やる方ありませんね。
しかし、そんな状況でもピンチをチャンスに変え、謀叛の噂によって却ってその名を高めた者もいました。
今回はそんな一人、鎌倉武士の鑑として名を馳せた畠山重忠(はたけやま しげただ)のエピソードを紹介したいと思います。
あの重忠に謀叛の疑い?
畠山重忠は平安時代末期の長寛2年(1164年)、現在の埼玉県深谷市に当たる武蔵国男衾郡畠山郷の豪族・畠山重能(しげよし)の子として誕生しました。
治承4年(1180年)8月の頼朝公挙兵に際しては、京都大番役で不在の父に代わって17歳で軍勢を率い、紆余曲折の末に源頼朝(みなもとの よりとも)公に仕えます。
その後数々の武勲を立てましたが、文治3年(1187年)11月、部下の乱暴狼藉がキッカケで謀叛を疑われてしまいました。
今まで清廉潔白を身上としてきた重忠にとってこれは耐え難い恥辱であり、所領に引き篭もって謹慎していたことが、ますます謀叛の準備に見えてしまうという悪循環。
「……畠山の本心を確かめるべきか、あるいはいっそ討つべきか、皆の意見を聴きたい」
頼朝公は11月15日、小山朝政(おやま ともまさ)、下河辺行平(しもこうべ ゆきひら)、結城朝光(ゆうき ともみつ)、三浦義澄(みうら よしずみ)、和田義盛(わだ よしもり)らの御家人を招集。緊急会議の席で真っ先に重忠を弁護したのが結城朝光でした。
「畠山殿は天性の廉直さを備えた高潔の士で、その言動は道理に適っており、大義なく私欲で謀叛を企むような男ではありません。むしろそんな彼を疑った事をこそ恥ずべきではないでしょうか」
まぁ、そこまで言うなら……と頼朝公は日ごろ重忠と仲の良い下河辺行平を使者として派遣します。
出来る事なら、重忠なんて強敵を相手にしたくないのが本心ですから、どうか無実であって欲しい(あるいは謀叛を企んでいるなら説得して欲しい)とみんなが願っていたことでしょう。
果たして11月21日、行平は重忠を連れて鎌倉に帰って来たのでした。
2ページ目 謀叛の疑いはかえって眉目……重忠らしい堂々たる答弁