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残忍で勇猛!戦国時代の武将・宇喜多直家の戦歴と荒々しすぎる所業がすさまじい

残忍で勇猛!戦国時代の武将・宇喜多直家の戦歴と荒々しすぎる所業がすさまじい:3ページ目

恩人に仇なす男

そして直家は、西から東に向かって勢力を伸ばす毛利氏と手を組み、織田信長と組んだ浦上宗景に反旗を翻します。

彼は、浦上氏に不満を抱いていた家臣たちを次々に寝返らせ、浦上宗景を播磨国に追放することに成功。ついに備前国を支配する有力大名として名を上げることになったのです。

そんな直家でしたが、織田信長の命で中国地方進攻に乗り出した羽柴秀吉(豊臣秀吉)にはあっさり服従し、今まで世話になっていた毛利氏に対する「手のひら返し」をやってのけています。

毛利氏は当然激怒し、備前国に向かって進撃を開始します。秀吉の配下となった直家は備中国高松城で毛利軍と対峙し、その後も美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返しました。そして1581年2月14日、戦のさなかに岡山城で病死したのですが、その折、子の秀家には織田への忠誠を誓うように命じています。

秀家は、信長が本能寺の変で敗死してもなお父の言いつけに従って秀吉に忠誠を誓い、秀吉が天下を統一すると「五大老」の一人として豊臣政権の中枢を担うことになります。

ですが、秀家には直家ほどの先見性がなかったらしく、秀吉の没後には権力争いに巻き込まれました。そして関ヶ原の戦いでは三成方について敗北、領地を没収されて八丈島に流されています。

秀家については、父親のような過激な行状は伝わっておらずマトモな人だったのだろうと推測されます。もしも父親の直家ほどの才覚があれば、直家の血を引く名将として、今よりももっと有名だったかも知れませんね。

参考資料
・大西泰正『宇喜多秀家 (シリーズ・実像に迫る)』戎光祥出版・2017年
・大西 泰正『宇喜多秀家: 秀吉が認めた可能性 (中世から近世へ) 』平凡社・2020年
・大西 泰正『「豊臣政権の貴公子」宇喜多秀家 』角川書店・2019年

 

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