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残忍で勇猛!戦国時代の武将・宇喜多直家の戦歴と荒々しすぎる所業がすさまじい

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たくさん殺して大活躍

そんな直家が頼ったのは、当時播磨国と備前国東部に権力を持っていた天神山城主・浦上(うらがみ)氏でした。当主の浦上宗景に認められた彼は、その配下として備前国内を転戦し、若くして乙子城を任されることになります。

城の主となった直家は、ここから「梟雄」としての能力を発揮し始めます。

まず手始めに岳父・中山信正を謀殺して居城と領地を奪い、祖父を討った仇敵である島村盛実を謀殺して、祖父の旧領地である砥石城を奪還することで領土を伸長。娘婿の浦上宗辰や後藤勝基、姉婿の谷川久隆なども殺害しました。

これだけでも眩暈がするようですが、彼の「活躍」はとどまるところを知りません。

1561年には、砥石城に引き続き信正の沼城も陥落。さらに、以前から浦上氏と敵対関係にあった松田氏配下の武将・穝所職経を謀殺します。ちなみに職経の妻は直家の妹でもあり、つまり職経は直家の義弟にあたる人物でした。

1566年には、敵対していた備中国(現在の岡山県)の大名・三村家親を短筒の火縄銃で銃撃して暗殺します。銃による有力者の暗殺は、日本史上でこれが最初と言われています。

まだ続きます。1568年には、備前国の金川城主・松田元輝の長男である松田元賢の軍事行動に不満を抱き、金川城を包囲して元輝・元賢親子を死に追いやりました。

ちなみに直家の妹は備中に嫁いでおり、直家は、妹の夫である伊賀久隆を唆して寝返らせています。そして金川攻めで松田親子を滅ぼすために利用しているのですが、この久隆も後に急死しており、直家による毒殺とも言われています。

直家はさらに同時期、備前国石山城主であり家臣でもあった金光宗高に「内通者だ」と言いがかりをつけて切腹させています。こうして直家は、備前国南西部をほぼ支配下に入れることになりました。

3ページ目 恩人に仇なす男

 

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