遊郭が担った歴史的役割と没落の歴史
「俺、今日はどの子にしようかなー。」
「えっ!お前、推しメンいたよな?」
「あー、あの子お堅くてさ。乗り換えたんだよねー。」
大坂の新町遊廓、京都の島原遊廓、江戸の吉原遊廓。一時は江戸時代の花街の最高峰として栄え、三大遊郭とも称されました。
幕府公認の遊郭として、上流武士しか立ち寄ることを許されなかった遊郭は、庶民の近づける場所ではありませんでした。
しかし時代の変遷とともに、絶大であったはずの遊郭の地位は揺らぎ・・・。
カジュアル化を余儀なくされた新吉原
最も栄えた当時の遊郭は格式を重んじ、徹底した非日常感と贅沢な演出で、限られた位の高い武士しか立ち入ることを許されない、ある種の聖域でもありました。
ところが時代が江戸から明治に変わり、武士の地位は没落。それに伴い商人たち。特に新興成金の商人が台頭し始めると、遊郭の様相は一変します。
格よりコスパ最強
商人が遊郭に出入りする様になり、遊郭は格よりコストパフォーマンスを求められる様になります。武士が上客であった頃の吉原は、仰々しいまでに格式を重んじていました。
遊郭はあくまでも非日常。日夜、死と隣り合わせで生きる武士たちに、安らぎと憩いをもたらす場であったのです。
天と地の差、遊女のランク付
遊郭全盛期には、遊女は3段階にランク分けされていました。
最上位が太夫(たゆう)。芸事を極め、芸をサービスする最高峰の遊女です。教養と卓越した美貌を兼ね備えた高級遊女が。それが太夫であったと言われています。
太夫は揚屋と呼ばれる宿に居り、自分が相手をする客の品定めをすることもあったとされています。
太夫はのちに花魁(おいらん)と呼ばれます。
一部の上流階級の人々の前にしか姿を見せない高嶺の花でもあった、教養と美貌を兼ね備えた美女、花魁は、憧れの対象でもあったとされています。
実際、文化芸能を極めた太夫によって、歌舞伎や芸事、言葉遣いやファッションといった最先端の日本文化の礎が生まれた、とも言われています。
太夫の次に位置するのが格子太夫(こうしたゆう)です。格子の中で着飾って客引きしたことから、格子太夫と呼ばれと考えられています。
最下位は端女郎(はしじょろう)、切見世女郎、もしくは鉄砲女郎と呼ばれます。安価にたくさんの客をとって収入を得ていました。
そのため性病に感染しやすく、自身が命を落とすのみならず、客に感染させることもあたっため、差別の対象となったとも言われています。
華やかで夢を売る遊郭は、壮絶な階級付と差別の構造を内包していました。ただこの厳しい序列があったからこそ、遊郭の格や品質が保たれていた側面も否めません。