「沖田氏縁者」の墓の女性は誰?新選組・沖田総司の恋人はまさかのあの人…?史跡巡りで見聞した説とは:2ページ目
沖田と光縁寺共通の縁がある女性が思い至らない
山南が切腹したのは元治2年2月23日(1865年3月20日)のこと。
謎の女性が葬られたのは慶応3年4月26日(1867年)のこと。
山南の死後、2年後ですね。
山南の介錯もした沖田が、明里を哀れに思い世話を焼いてあげ、また明里も沖田を頼りにするようになり、深い仲になったのでは?とのこと。
ここからは筆者の想像と推測も交ります。
沖田の労咳がうつったのか何らかの事情で死期が迫った明里が、「自分が死んだら山南と同じ場所に埋めてほしい」と沖田に頼み、それを沖田が聞き遂げてあげたのではと。
ただ、沖田が明里を哀れに思っただけなのなら、「山南縁者」としてもよく、わざわざ「沖田」としなくてもいいはずです。また、沖田が一方的に好意を寄せていたとしても、女性の意向を無視して「沖田縁者」として葬るとも考えにくいです。
となれば、この女性は「沖田の縁者」として葬られてもおかしくはないか、同意の上だったととみるのが自然で、二人の仲が浅からぬものと考えるのが自然ですね。また、光縁寺にゆかりがない人物なのであれば、ここに葬る必要もなかったはずです。
戒名も似ている
沖田総司の戒名と、謎の女性の格と名前が似ているとの指摘もあります。
・総司の戒名「賢光院仁誉明道居士」
・女性の戒名「真明院照誉貞相大姉」
大姉とは女性の戒名の最後につく語で、男性でいう居士にあたります。戒名の位としては、一番低い「信女」の上にあたり、在家信者の女性につけられるとのこと。
ただ、武家などのしっかりとした身分の女性であれば、俗称(名前を伏せて)で葬られることはないはずですし、そもそも未婚であればその家の菩提寺に弔われるのではないでしょうか。大姉としてあげたものの、身分は高くなかったとみるのが通常でしょう。
沖田自身も出自から謎の多い人物ですし、明里の史料も資料も見つかっていませんので、まったく推測と想像の域を出ないのですが可能性としてはありそうな線だと思います。
沖田総司といえば近藤勇がその仲を反対したという「医者の娘」との悲話もありますが、この話も信ぴょう性ははっきりとはしていません。その説はまた、次回ご紹介することにします。