徳川家光からの信頼大!酒井忠勝(さかいただかつ)の知られざる逸話をご紹介

雲川ゆず

みなさんは、酒井忠勝(さかいただかつ)という人物の名前を聞いたことがありますか?

日本の歴史上で優秀な人物は山ほどいますが、今回ご紹介する酒井忠勝もそんな人物のひとり。その才能は、とある有名な将軍から自身の「右腕」と言われるほどでした。

そこで、今回の記事では、そんなすばらしい酒井忠勝について、彼の逸話などと一緒にご紹介したいと思います。

酒井忠勝とは、どんな人物?

酒井忠勝は、天正15年(1587年)に徳川家の家臣である酒井忠利(のちに川越藩初代藩主となる人物です)の長男として三河国西尾に生まれました。徳川秀忠に従って参加した関ヶ原の戦いでの上田合戦が彼の初陣と言われています。

その後3代将軍の徳川家光の家臣となりました。寛永元年(1624年)には老中となりました。父が死去すると、川越藩2代藩主となりました。また、寛永11年(1634年)にはさらに加増され、若狭小浜へと移りました。

寛永15年(1638年)には老中を罷免され、その後は大事を議する日のみ登城となりましたが、これが大老職のおこりとなりました。

寛文2年(1662年)に76歳で亡くなりました。

酒井忠勝の有名なエピソード

酒井忠勝は、特に3代将軍である徳川家光から大きな信頼を寄せられていました。家光は、「我が右手は讃岐(酒井忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)」と述べたと記録されています。

また、家光は若いころ夜になると江戸城を抜け出していましたが、これは小姓の山城守の屋敷を訪れていたのです。

ある寒い夜、家光が屋敷から帰る際、草履が温かかったことに感動しましたが、これは山城守ではなく、密かに警護していた忠勝による心遣いでした。

2ページ目 酒井忠勝と神楽坂

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