庶民から強く支持された歌人・石川啄木は作り話の天才で放蕩三昧だった!?:2ページ目
「働けど働けど」
デビュー作「あこがれ」が大ヒットし、結婚式ではドタキャン騒ぎを起こしたものの晴れて結婚した啄木は、世間から見れば順風満帆に映ったかもしれません。
しかし、「あこがれ」を発表したあとも啄木は生活できるほど稼ぐことはできず、仲の良かった金田一京助を頼って小説を書いています。同時に、教師や朝日新聞社の校正などアルバイトをして生計を立てていました。
そういった状況のなかで読んだ歌が「働けど働けど」であり、「働いても働いても、私たちの生活はちっとも良くならない。それでも、いまのままでは良くない。何とか現在の貧乏生活から抜け出したい」という啄木の思いが反映されている作品です。
この「働けど働けど」が掲載された短歌集「一握の砂」は、「あこがれ」発表から約6年後の1910年に出版され、啄木はようやく文学家としてまともな収入を得られるようになります。
作品と現実の乖離
心を打つすばらしい作品を数多く世に送り出した啄木ですが、「作り話の天才であり、放蕩三昧」の人物でもあったようです。
たとえば、啄木の短歌には「ふざけて母を背負ってみるが、あまりの軽さに涙がこぼれ3歩も歩けない」といった、年老いた母を想う一節があります。しかし啄木は、母親に仕送りをしたことは一度もありません。
それどころか、遠くで母と妻が生活しているのをいいことに、女遊びに浸っていたのだとか。
さらに、妻には読まれないよう女遊びに関する日記をローマ字で記していました。
また、23歳の頃から働きはじめた東京の新聞社では、朝起きられず、仮病で休むことも少なくなかったと言われています。
作品の世界観とはまったく違い、人間臭く放蕩ぶりが目立つ人生を送ったとされる啄木。しかし、聖人君主とは違った人間味あふれる生活を送った啄木だからこそ、現代の我々もが共感できる万人の気持ちを表現できたのかもしれません。